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コレラの伝染様式について
コレラのでんせんようしきについて |
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作品ID | 53757 |
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原題 | ON THE MODE OF COMMUNICATION OF CHOLERA |
著者 | スノウ ジョン Ⓦ |
翻訳者 | 水上 茂樹 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
入力者 | |
校正者 | The Creative CAT |
公開 / 更新 | 2011-09-21 / 2019-06-08 |
長さの目安 | 約 189 ページ(500字/頁で計算) |
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第2版への序
この本の第1版は1849年の8月に出版されたものであるが、薄いパンフレットに過ぎないものであった。その時から後で、私はこの主題について種々の論文を書き医学会で話したり医学雑誌に刊行した。この版はこれらのすべての論文の内容だけでなく新事実を含んでおり、これらの大部分は私の最近の調査の結果である。
この調査のために戸籍本署長官がいろいろと便宜をはかってくださったことにたいして、私はこの機会にあたり感謝を捧げる。
今回の研究にたいしても、コレラの原因を確かめるために私が行った過去の努力に与えてくださったのと同じような親切な配慮を、医学界の皆様が私に与えてくださるであろうことを確信している。
サックヴィル・ストリート、ピカデリー
12月11日、1854
コレラの歴史
アジア型コレラの存在は1769年以前には判然としてはいない。インドの大部分はヨーロッパの医師にこの時以前に知られていなかった。これがそれ以前のコレラの歴史の知られていない理由であろう。スコット氏(1)が引用している種々の文献によるとここに述べた時よりも前にマドラス(*インド南部の港)で流行しており、この時から1790年のあいだにインドで数千人も死亡している。ヨーロッパ人が知らなかっただけであってアジアの多くの場所に存在していただろうが、この病気についてこの頃から1814年まで殆ど何も知られていない。
1814年6月に北アイルランド、第9連隊、第1大隊がジョールナ(西インド)からトリチノポリー(南インド)に進軍しているときに激しいコレラが出現した。一緒に進軍していた他の大隊は1つの例外を除いて状況は同じであったが、このような傷害を受けることはなかった。クリュイクシャンクス氏はこの例を見ていて報告を行った。このことは後に述べることにする。
1817年にガンジス川のデルタ地帯の幾つかの場所でコレラは異常な激しさで流行し、インドのこの地域で開業をしていた医師たちにとってこれまで見たことが無いものだったので、新しい病気と思われた。今度コレラはこれまで知られていないほど広範に広がった。7年のあいだに、東はシナやフィリッピンに、南はモーリシャスおよびブルボン島(インド洋のフランス領)に、北西はペルシアとトルコに及んだ。ヨーロッパに入ってから我が国に近づいていることは他方面に向かうのよりも心配であった。コレラが世界の種々の場所に進んでいることを述べるには時間がかかることである。ある場所では荒廃を起こし、他の所では軽く過ごし、時には触れないこともあった。私が述べることの出来ないそれらの場所の物理条件や人々の習慣を伴うものでなければ、このような記載は何の役にも立たないであろう。
しかしコレラの進展に伴ってある種の状況が存在する。これは一般的に言うことができる。この進展は人間の交流の大…