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いわゆる自然の美と自然の愛
いわゆるしぜんのびとしぜんのあい
作品ID53867
著者丘 浅次郎
文字遣い新字新仮名
底本 「現代日本思想大系 26 科学の思想Ⅱ」 筑摩書房
1964(昭和39)年4月15日
初出「時代思潮」1905(明治38)年5月
入力者川山隆
校正者雪森
公開 / 更新2015-11-18 / 2015-09-01
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 教育学の書物を開いて見ると、博物学の教育的価値を論ずるところにかならず次の一か条が掲げてある。すなわち「博物学を授ける目的の一は生徒をして自然の美なるを感服せしめ、したがって自然物を愛するの情を起さしめるにある」と書いてある。わが国の文部省の普通教育に関する法令の中にも、やはりこの説によったものと見えて全く同様なことが載せてある。また博物学者の方にも同様な考えを抱いている人が多数を占めているようであるから、今日のところではこの説は世間一般にあまねく行なわれているものとみなさねばならぬが、われらはこの説を聞くごとにつねにおかしく感じていたのであるゆえ、今その理由をここに述べていささか教育学者および博物学教授者の参考に供したいと思う。
「なんじはいつ盗賊を止めたいか」という文句の中に「なんじは盗賊であった」という意が含まれてあるごとくに「自然の美を感服せしめる」という文の中には「自然は美なり」という断案が含まれてあるが、われらの考えによればこの断案がすでにはなはだ誤ったものである。虚心平気で自然を観察すれば、美なりと感ずる部分のあるはもちろんであるが、それと同時にはなはだ醜なりと感ぜざるを得ぬ部分もたくさんにある。これはきわめて明瞭なことで改めて例を挙げる必要もない。自然を観察するために郊外へ出かければ、荒れ果てた草原に牛や馬の骨が乱れ転ってある傍に腐りかかった猫の屍骸が横たわり、皮膚は破れ腸は流れ出し全部はなはだしい悪臭を放っている。その側に美しい菫の花が咲いていて、その隣りに新しい犬の糞が堆っているというごときことを至る所で実見するが、これがすなわち小規模の自然の見本である。大なる自然の全部もこのとおりで美なるものも醜なるものもことごとくその中に含まれている。人の掃除した所だけは暫時例外のごとくに見えるが、捨て置けばかならず上に述べたごときありさまになってしまう。
 かような実際のありさまを目前に見ながら、醜なる部分については一言も言わず美なる部分のみを非常に賞讃し、あたかも自然は全部ことごとく美なるかのごとくに説く者の生じたのは何故かというに、これはわれらの考えによれば恐らく耶蘇教の影響を受けたゆえであろう。慈愛に富める神がわれわれ人間のためにこの世界を造り与えたと説き込むには、勢いまずこの世界は美なる世界であると会得させて置かねばならぬ。けだし慈愛に富める親爺はけっしてその子に半分腐った饅頭を与えぬと同じ理窟で、慈愛に富める天の父はけっしてわれわれに半面醜なる世界を与える道理はないからである。それゆえ耶蘇教の伝道者は自然の醜なる部分を押え隠し、美なる部分のみを賞揚し、針を棒とし、また時としては火を水として、盛んに自然の美を説き、かくのごとき美なる世界をわれわれに造り与えたのは実に宏大無辺なる神様の御慈愛であると説き立てたであろうが、それが基となって今日…

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