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生きているコタンの銅像
いきているコタンのどうぞう
作品ID53887
副題――アイヌの慈父・高橋房次――
――アイヌのじふ・たかはしふさじ――
著者知里 真志保
文字遣い新字新仮名
底本 「和人は舟を食う」 北海道出版企画センター
2000(平成12)年6月9日
初出「日本 第二巻第十二号」1959(昭和34)年12月
入力者川山隆
校正者雪森
公開 / 更新2015-07-01 / 2015-05-24
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

銅像が皆の手で作られた
 白老のシュバイツァーとして、すでに貴重な存在になっている高橋房次氏が、今度白老町の住民一同から銅像をおくられることになったという。町民がこぞって醵金に応じ、町役場前の広場に銅像をたてるということは、誠に意義の深いことだと思われる。
 大正11年3月に、旧土人保護法施設として完備された道立白老病院の院長とし、高橋氏が赴任されてからも37年になる。その間、土人部落の一員として、文字通りアイヌや一般の人達とともに、その生活の労苦をあじわってきたわけである。77歳の高齢をもって、いまなお矍鑠として、町民の診療にあたっている氏のためにも、今度の町のもよおしは、ほんとうに心あたたまる朗報である。
 白老の名誉町民第一号の氏にたいし、いま老人の人達は、全山紅葉の時期までには氏の胸像を完成させ、その除幕式をかねて高橋氏の功績顕彰会をひらこうと、まさに町ぐるみ一丸となって、その達成に全力をあげている。
 私はそこで、なぜ高橋房次氏が、白老の町民一同から銅像をおくられるようになり、どういうわけでこの白老町にとどまっているかということと、氏が白老の医者になった、赴任当時の様子など具体的な例をもならべたてながら、氏のヒューマンな人間性の一面を語って行きたいと思う。
白老の医師となる
 明治15年、栃木県下都賀郡で生れ、その後、36年3月に東京慈恵医学専門学校を卒業し、翌年7月に軍医官として日露戦争に従軍、戦争後、明治40年8月から42年7月までの間を警視庁にあって検疫委員として在職し、42年8月には、青森県町立田部病院の院長として赴任した。大正4年5月まで、そこでの生活は続いている。
 その後大正4年6月に渡道して、日高支庁管内の新冠村の村医になり、在郷軍人分会長をかねながら、村民の与望を一身ににない活躍した。
 大正11年3月、高橋氏は新冠村にわかれをつげ、庁立白老土人病院長として白老に着任した。村医嘱託もかねたらしい。
 昭和12年6月には、旧土人保護法の廃止により、道立白老土人病院は閉鎖されたが、以後その場所で開業し、ずっと村医としての責任も持たれ、今日にいたっているのである。昭和30年9月には、白老町名誉町民に選ばれ、同32年6月には北海道医師会から表彰をうけている。
 大正11年3月に、旧土人保護法の一環として完成された白老病院の院長として、貧困と悪習のはびこるなかに、氏はあえて赴任された。
 他の土人病院設置候補地であった平取、静内などの町村をしりぞけ、白老に病院をつくりあげた土人協会の人達にとっては、まさに干天の慈雨とでもいうか、最良の医師においでを願ったということになるのである。アイヌをみるという特殊事情から、よほど理解のある医者(先生)を見つけなくてはならないという、部落有志の志がかなえられたわけであった。
それをするのが私の使命だ
 高…

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