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アイヌ語学
アイヌごがく
作品ID53897
著者知里 真志保
文字遣い新字新仮名
底本 「和人は舟を食う」 北海道出版企画センター
2000(平成12)年6月9日
初出「北海道事始め」楡書房、1956(昭和31)年2月
入力者川山隆
校正者雪森
公開 / 更新2013-06-30 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 アイヌ語の研究にかけては、世界的な権威として、その名声をうたわれているジョン・バチラー博士が、アイヌ語で説教をして、アイヌを感心させたという話が伝えられております。明治の中頃、といえば、アイヌがまだアイヌ語を使って暮らしていた時代なのでありますが、北海道の南の方の、とあるアイヌ部落に、当時まだ非常に若く、新進気鋭の牧師であられたバチラー博士があらわれて、部落のアイヌを集めて、キリスト教について、アイヌ語で説教を致しました。滔々と何時間か、アイヌ語でペラペラと説教をするのを、ポカンと口を開いたまま、呆気にとられて聞いていたアイヌたちは、博士の長い長いアイヌ語の説教が終ると、感嘆していったということであります。――「えらいもんだな。さすがに、鉈と鎗を使ってものを食う先生だけあって、あのアイヌ語のうまいこと!ただ惜しいことには、北の方のアイヌ語でしゃべったので、何をいったんだかちっとも分らなかった」といったというのです。そのバチラー博士が、今度は北の方の部落に現われ、やはり滔々とアイヌ語で説教しますと、そこのアイヌも、びっくりして、――「えらいもんだな。さすがに、ものを食うにも鉈と槍を使って食う先生だけあって、あのアイヌ語の上手なこと!ただ惜しいことには、南の方のアイヌ語でしゃべったので、何をいったんだか、さっぱり分らなかった……」、といったということであります。
 この話は、非常によくできておりますのであるいは作り話かも知れません。その真疑のほどは保証の限りではありませんが、バチラー先生は、キリスト教の聖書や祈祷書や讃美歌の類をたくさんアイヌ語に翻訳したものを残しております。たいてい今から60年ばかり前に書かれたものなのですが、それらの本を今開いて見ますと、チンプンカンプンで、さっぱり分らない。たしかに、書いているのはアイヌ語だということは分るのでありますが、さて何を書いているのか、という段になりますとさっぱり分らないのであります。アイヌが読んでも分らないアイヌ語で書いてあるという点で、これは誠に天下の珍本たるを失わないものなのであります。このアイヌ語の聖書など、今は古本屋の相場で、一冊何千円の高価を呼んでおりまして、米の飯と同じく、貧乏人にはちょっとつき合えないシロモノになっております。今いった通り、アイヌも分らないアイヌ語で書いてあるという、天下の珍本なのでありますから値の張るのも無理のないことだと考えております。バチラー先生の学問的なお仕事として有名なものに、アイヌ語の文法と辞書があります。バチラー先生が初めてアイヌ文典を公にされたのは、遠く明治20年にさかのぼるのでありますが、それが初めて『日本帝国大学紀要第一』に載ったときには、当時東大の教授として言語学の王座を占めていたバジル・ホール・チェンバレン教授が、非常に感激して絶讃の辞を与え自分が北海道各地…

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