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洪水のように
こうずいのように
作品ID53940
著者徳永 保之助
文字遣い新字新仮名
底本 「日本プロレタリア文学集・38 プロレタリア詩集(一)」 新日本出版社
1987(昭和62)年5月25日
初出「近代思想」1913(大正2)年12月号
入力者坂本真一
校正者フクポー
公開 / 更新2018-12-13 / 2018-11-24
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

ふいご、
初めの日は面白くてたまらぬ、
ぶうぶうと、
少年の細腕にありたけの力をしぼって、
押したり引いたりした。
二日、三日、
長い時間のはたらきの疲れ、
私はめちゃくちゃにねむくてたまらず、
われ知らずいねむりをした。
束の間の少年の夢、
恋人の女の子と遊ぼうとすれば、
コツン!
拳骨のひどい痛さに、
びっくりして目がさめた。
子供心にくやしく、なさけなく、且つやるせなく、
しぶい目から熱い涙がこぼれた。
いま思っても憎らしい、
くろんぼのような顔にどんぐり眼をひからした奴!
私をなぐった奴!

その日のかえり、
晩方の月島の渡船の中で、
見もしらぬ若いきれいな女が、
暗いふなべりにしゃくり泣く少年の私をなだめすかして、
菓子さえくれた。
あの女、一体誰だろう?
私を知っていたのだろうか、
女は云った、
自分の小さい弟にでも向うように。
『お前どうしたの?
おなかが痛いの? そうじゃないと云うの、
それじゃ何をそう泣くの?
何がそんなにかなしいのさ?
妾に言ってごらん!』
女は私の涙をふいてくれた、
けれど私の涙は、
女のハンケチをとおして、
止めどもなく大川のひろびろしたくらい流れに落ちた。

流れの上を晩秋の冷たい靄が、河のねむりをさそうように罩めていた。
その中に船頭らの焚く火が、
水面のところどころを
ラヴの火の流れのように真赤にした。
はるか港の方の、見えわかぬ靄の奥から、
櫓の音が夢のように聞えて来た。
私は泣くまいとした。
船も私の心をなるたけ動かすまいとするように音も無くすべった。
けれど船べりにおどる川浪がぽちゃぽちゃと、
意地悪るい子供のように、
絶えず私のかなしい心にからかった。
私はそれをきくと一層熱い涙が一時にあふれ出した。

『もうおだまり! ね!
男の子が、――
今に世の中に出て、
立派なえらい人になるものが、
そんなに泣くもんじゃないのよ。』
女は云った。
私はうなずいた。

ああ、あの若い女はどこの人だったろう?

ああ女よ、
私は心からおんみに感謝する、
おんみがどこの人であろうとも、
私は終生おんみを忘れないだろう、
おんみの私にかけてくれたやさしい言葉を忘れないだろう。
あの時のただ白く美しかったおんみの顔よ、
対岸の、涙にぬれた、なつかしかった築地海岸の灯よ。

ああ女よ、
少年の私を慰めてくれた、
多くの人の中のただ一人の女よ、
私は今ふとおんみの言葉を想い出した。
おんみは泣き止まぬ私に言ってくれた。
『今に世の中へ出て、
立派なえらい人となるものが、
そんなに泣くもんじゃないのよ。』と、
是は無論一時の慰めの言葉だろうけれど、――
ああ女よ、
私を見てくれ!
私は今二十五だ、
そしてやっぱり無一物の労働者だ!
そして私は今でもやはり泣いている、
私と、私と同様に不幸な多数の人の為に、
その人たちの悲惨な生活…

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