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年譜
ねんぷ |
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作品ID | 54152 |
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著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「忘れ残りの記」 吉川英治歴史時代文庫、講談社 1989(平成元)年4月11日 |
入力者 | 川山隆 |
校正者 | トレンドイースト |
公開 / 更新 | 2019-09-07 / 2019-08-30 |
長さの目安 | 約 28 ページ(500字/頁で計算) |
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明治二十五年(1892)
八月十一日。神奈川県久良岐郡中村根岸に生る。次男。父直広は小田原藩の下士。早くに横浜へ出、開港企業家の一旗組に伍すも、性その質でなく、南太田新田の牧場と酪業経営に失敗し、一時、県庁書記、酒税官など勤めたが続かず、当時、根岸競馬場附近に住み、内外人の幼児を集めて、母と共に、寺小屋式幼稚園みたいなことをしていた。
母の出身は、千葉県佐倉で、同地の旧藩士で臼井町長をしていた山上弁三郎の四女。娘時代は、親戚先の芝新銭座の攻玉舎近藤真琴氏に預けられて、勉学教養など、同家で送った。
明治二十九年(1896) 四歳
父、横浜桟橋合資会社の起業に一両年奔命、家も山手町横浜植木商会の園内に移転。この年、母に伴われて祖父山上家に遊び、帰途新橋駅で母が切符を求めるを待つ間に、土産物合財袋などをみな盗られ、巡査や人だかりの中で大いに泣く。
明治三十年(1897) 五歳
巌谷小波の「世界お伽ばなし」などそろそろ見初める。母が灯下に針仕事しながら読書話しをする感化をうく。この年の夏、自分に母ちがいの兄があったのを初めて知る。学帽白ガスリの青年が突然訪ねて、父、会社より急に帰宅、父子ハンケチで眼を拭う状を童心につよく印象づけられた。異母兄政広は、小田原の藩医綾部家に養子入籍されていたもの。医学希望で実父を頼り来るも、父に諭されて帰る。
明治三十一年(1898) 六歳
横浜市千歳町山内尋常高等小学校に入学。四季、植木商会の花園を抜けて約半里を通学する。園丁の子、市チャンと仲よしになる。市チャンと共に、南京墓や相沢の貧民窟「いろは長屋」までをよく飛びあるく。後年の作「かんかん虫は唄う」のうちにある描写はその頃の印象に依る。
明治三十二年(1899) 七歳
小学校終課後も、教室に残って、特別に英語の個人教授をうく。週二回、帰宅後も宵よりまた家の近所の岡鴻東氏の「岡塾」に通い、漢学を習ぶ。中学漢林、詩経、十八史略などこの年より九歳までつづく。
家庭、山手通り遊行坂上に移る。日曜学校にも通う。附近外人住宅、宣教師、洋妾の家など多く、自然外人の友達多し。名騎手神崎の厩舎も近く、当年の東都の名士名妓などつねに出入し、騎手神崎の出入を仰いで、幼な心に将来は騎手にならむかなどと思った。
明治三十四年(1901) 九歳
家、南太田清水町一番地へ移転。
家運続いて隆昌を極めるも、父の大酒と豪遊の風もやまず、子等は父の姿を忘れ、父の姿を見る日は、その愛妓茶屋の女将までを家庭に見た。また母の泣く姿をたびたび見初めた。異母兄政広も、この頃、一つに起居し、父が医科入学に反対のため、横浜左右田銀行に勤務。つねに義母に同情し、義母を力づけていた。性格が優しいだけでなく美青年だったのでよく近所の娘に恋されていた。混血児のオテイちゃんなどその一人であったように少年の眼には映った…