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竹林生活
ちくりんせいかつ
作品ID54253
副題――震災手記断片――
しんさいしゅきだんぺん
著者北原 白秋
文字遣い新字旧仮名
底本 「白秋全集 18」 岩波書店
1985(昭和60)年12月5日
入力者岡村和彦
校正者川山隆
公開 / 更新2012-01-27 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

          *

 あの第一回の烈震以来、その後千数百回の余震に、人人はどれだけ脅かされたか。
 その初め、未だ曾て識らぬ稀有の地震に私たちは為すところをさへ知らなかつた。つくづくと思ふことは一大事処に際する、かねての精神の鍛練如何といふことである。
 静観と沈勇、かうした心状に於て私たちは初めてまことの詩の道に立つことが出来るのである。
 ああ、私の庭のあかい葉鶏頭は葉鶏頭としての営みを、その裂けた土の上にも忘れては居らない。崩れた山の畑にも胡麻は胡麻としての智慧を完全にめぐらしてゐる。
 千載一遇のこの尊い体験を私たちは心から感謝してよい。凡ては鮮やかに生れて来る。

          *

 よく観、よく察して来る日によく処するといふことが私には何より虔ましく信ぜられた。驚きを驚きとし、恐れを恐れとして正しく恥ぢ、正しく省みる事に於て私たちは初めて救はれるであらう。
 かういふ非常の際には人人はその平生の常識をさへ失つて了ふ。恐るべきを恐れずして、恐るべからざるものを恐るるは怯か愚である。自ら警むべきの何たるかを知らずして、また何をか警めむと為たであらうか。
 だが、警察では早くも市民の義勇隊を募つた。町の人人は狂奔した。噂は噂を生んだ。竹槍、銃器、刀剣の類は取り出された。
 この間に続続として避難の男女が西し東した。ああ、彼等は最早やほとんど生色が無かつた。著のみ著の儘であつた。ただ辛うじて歩むといふだけであつた。ただ恐れてゐた。ただ生きむ事を願つた。ただ先へ先へと当ても無く逃げればよかつた。而もまた糧食を負ひ、茣蓙をかつぎ、削ぎ竹を杖にして、近親の安否を案じ、朋友の救援に赴く者も亦一つとして死線の険難に惑はざるはなかつた。

          *

 あの時、私は頭上に微傷こそ負つたが、幸に命はあつた。私の妻子も辛うじて逃れて恙は無かつた。ともに私たちは奇運を得た。
 私の家は大破はしたが、不思議に倒壊を免れ得た。この山にかうした恵まれた家は他に一戸あるきりである。それも私の家に較ぶればまだ被害は軽くはなかつた。その余は眼に見るかぎりの邸宅が壊滅して了つた。それどころではない、この私の住む小田原の町全部の家屋が殆どことごとく倒壊した。而もその大半は猛火に焼かれて一夜の中に茫茫とした焦土と化して了つた。圧死焼死相継ぎ、悲惨とも無慙とも言ひやうがなかつた。加ふるに山はくづれ、崖はなだれ、海嘯は起り、暴風雨は襲ひ、物資の窮乏、流言蜚語、それ等は絶えざる余震とともに災害のあるかぎりを以て生き残りの人人を試した。
 私としても生死をさへも遠くには知られなかつた。一時は行方不明とも伝へられた。当然のことであつた。
 その頃、道に会ふ人ごとに互の無事なのに驚かされた。さうして『命だけは助かりました。』『命だけは。』と言ひ交してゐた。
 それほどの凄ま…

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