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蕎麦の花の頃
そばのはなのころ
著者李 孝石
文字遣い新字新仮名
底本 「〈外地〉の日本語文学選3 朝鮮」 新宿書房
1996(平成8)年3月31日
初出「文学案内」1937(昭和12)年2月号
入力者坂本真一
校正者hitsuji
公開 / 更新2020-02-23 / 2020-01-24
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 夏場の市はからきし不景気で、申ツ半時分だと露天の日覆の影もそう長くは延びていない頃だのに、衢は人影もまばらで、熱い陽あしがはすかいに背中を焙るばかりだった。村のものたちはあらかた帰った後で、ただ売れはぐれの薪売りの組がはずれの路傍にうろうろしているばかりだが、石油の一と瓶か乾魚の二三尾も買えばこと足りるこの手合を目当にいつまでも頑張っている手はなかった。しつこくたかってくる蠅と餓鬼共もうるさい。いもがおで左利きの、太物の許生員は、とうとう相棒の趙先達に声をかけた。
 ――たたもうじゃねえかよ。
 ――その方が気が利いてるだ。蓬坪の市で思うようにはけたこたあ一度だってありゃしねえ。明日は大和の市じゃで、もりかえしてやるだよ。
 ――今夜は夜通し道中じゃ。
 ――月が出るぜ。
 銭をじゃらじゃら鳴らせ、売上高の勘定を始めるのを見ると、許生員は※[#「木+戈」、U+233FE、98-下-7]から幅ったい日覆を外し、陳列してあった品物を手繰り寄せた。木綿類の畳物と綢類の巻物で、ぎっしり二た行李に詰った。筵の上には、屑物が雑然と残った。
 市廻りの連中は、おおかたみせをあげていた。逸疾く出発して行くのもいた。塩魚売りも、冶師も、飴屋も、生姜売りも、姿は見えなかった。明日は珍富と大和に市が立つ。連中はそのどちらかへ、夜を徹し六七里の夜道をてくらなければならなかった。市場は祭りの跡のようにとり散らかされ、酒屋の前では喧嘩がおっ始まっていたりした。酔痴れている男たちの罵声にまじって、女の啖呵が鋭く裂かれた。市日の騒々しさは、きまって女の啖呵に終るのだった。
 ――生員。俺に黙ってるだが、気持あ解るだよ。……忠州屋さ。
 女の声で、思い出したらしく、趙先達は北叟笑みをもらした。
 ――画の中の餅さ。役場の連中を、相手じゃ、勝負にならねえ。
 ――そうばかりもゆくめえ。連中が血道を上げてるのも事実だが、ほら仲間のあの童伊さ、うまくやってるらしいで。
 ――なに、あの若僧が。小間物ででも釣っただべえ、頼母しい奴だと思ってただに。
 ――その道ばかりゃあ判んねえ。……思案しねえと、行ってみべえ。俺がおごるだよ。
 すすまないのを、跟いて行った。許生員は女にはとんと自信がなかった。いもがおをずうずうしくおしてゆくほどの勇気もなかったが、女の方からもてたためしもなく、忙しいいじけた半生だった。忠州屋のことを、思って見ただけで、いい年して子供のようにぽっとなり、足もとが乱れ、てもなくおびえ竦んでしまう。忠州屋の門をくぐり酒の座席で本当に童伊に出会わした時にはどうしたはずみでか、かっと逆上せてしまった。飯台の上に赭い童顔を載せ、いっぱし女といちゃついているところを見せつけられたから、我慢がならなかった。しゃらくせえ野郎、そのだらしねえ様は何だ、乳臭え小僧のくせに、宵の口から酒喰らいやがっ…

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