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心理学
しんりがく |
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作品ID | 54270 |
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著者 | 矢田部 達郎 Ⓦ |
文字遣い | 旧字新仮名 |
底本 |
「哲學研究入門」 小石川書房 1949(昭和24)年9月30日 |
入力者 | 岩澤秀紀 |
校正者 | 石井彰文 |
公開 / 更新 | 2014-05-09 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 20 ページ(500字/頁で計算) |
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哲學的學科のうちで心理學は一風變っていて、近頃では殆んど自然科學の一分科だと考えられるようになっている。今から八十年程前にクロード・ベルナァル(Claude Bernard)はその『實驗醫學序説』(三浦岱榮譯、昭和二十三年、創元社)で醫學界に哲學的偏見が支配し、實驗的精神が足りないことを強調したのであるが、かれがそこで述べていることはそのまま現今の心理學界に當てはまるように思われる。心理學を研究しようとする人は先ずこの本を讀むとよいであろう。そこでは研究者は觀察や實驗によって事實を明らかにし、かかる事實を説明すべき假説を立てて、それを實驗で檢證すべきことが述べられている。それは何も事新らしいことではないけれども、精神科學の領域ではえてこの、事實による檢證ということが忘れられ勝ちなのである。成る程精神科學では實驗による檢證ができない場合が屡々起る。併し檢證は實驗だけによって行われるものとは限らない。或る事柄が多分こういう理由で起ったのではあるまいかと考えたら、それと同種類の事柄について、果して同じような理由で同じようなことが起っていわしまいかと探索して見るのも一種の檢證である。それは統計的事實でもよいし、或は唯一回だけの事實でも典型として認められるような事柄であればよいのであって、自分の考えを兎に角事實によって試めして見るということが科學的思考にとってはどうしても缺くことのできない條件であるということを忘れてはならないのである。
精神現象、特に意識現象は唯一回限り、而も或る一定の個人によって經驗されるだけで、ほんとうのことはその個人以外の他の人には傳達することができない。だからそういう經驗はどうにかして物理的な言語に飜譯することができなければ科學の對象とはならないという説をなす人々がある。こういう説は特にウィーン學園のシュリック(M. Schlick)やカルナップ(R. Carnap)によって唱えられたのであって(カルナップは今シカゴにいる)、これらの問題は近頃出た中村克己『心理學の論理』[#「『心理學の論理』」は底本では「『心理學の論理學』」](昭和二十三年、白揚社)に精しく述べられている。氏はこういう考えに答えて、他人の意識も他人の外的行動と同じように觀察者によって直觀的に把握されるというケーラァ(W. K[#挿絵]hler)やドゥンカァ(K. Duncker)の考えに荷擔している。ところがカルナップによればそういう意識でも結局は科學的知識の資料となる客觀性、換言すれば公共性(publicity)がないと主張されるのである。併しよく考えて見れば、公共性のあるといわれる自然科學の資料的知識も結局は個人の意識に反映する事實ではないであろうか。水中に差込まれた棒が曲って見えるのも、引上げられた同じ棒が眞直ぐに見えるのも、共に個人の意識にとっては眞實である。そ…