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お蝶夫人
おちょうふじん
作品ID54343
著者三浦 環
文字遣い新字新仮名
底本 「三浦環 「お蝶夫人」」 人間の記録、日本図書センター
1997(平成9)年6月25日
入力者荒木則子
校正者小岩聖子
公開 / 更新2015-12-22 / 2018-01-20
長さの目安約 251 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

[#ページの左右中央]



第一部


[#改丁]

一 リリー・レーマンに憧れて
 ドイツへ行ってリリー・レーマンについて歌の勉強をしようと思って三浦政太郎と一緒に横浜を出帆したのは、一九一四年(大正三年)五月二十日のことでした。
 私は非常に船に弱いので船の中ではずっと寝通しでしたから、香港に着きました時はほっと致しました。それにイルミネーションが綺麗でしたので、余計に明るい気持ちになりましたが、ここでお船は一晩お休みしたのでやっと元気を取りもどしました。
 お船が香港に着く前の晩のことでした。私は生まれて始めて洋服を着ようと思って三浦に話しましたら、
「日本の婦人が洋服を着ると、胴が長くて足は練馬大根のように短く、まことにみっともない。船中では着物を着ていて、向こうへ着いて、どうしても洋服を着なくてはならなくなるまで洋服を着るのはお待ちなさい」
「だって私は、まだ一度も洋服を着たことがありませんから、向こうへ着いてから始めて着るのではよけいみっともないと思いますの、だからお船の中で着馴らして少しでも着かっこうの良いようにしておきたいのよ」
「向こうに着いてから、西洋の婦人の着方をよく見習った方が良い。船中で妙な癖でもつくとその方がよけいみっともない」
「いいえ、妙な癖なぞつけません。一日でも着馴らした方が良いと思いますのよ」
 私は洋服を着ることを強く主張いたしましたところ、
「今から夫にさからうようでは、末恐ろしい」
と三浦はおこりました。私はそんな気で申したのではありませんでしたが、この船中の洋服事件が生まれて始めての夫婦喧嘩でした。
 さて香港に着きましたところ、ペストが流行いたしておりましたので、同船の児玉さん、あの有名な児玉大将の息子さんはじめみなさん上陸なさいましたが、三浦も私もペストが恐いので上陸せず、広い食堂で二人きりで食事をいたしました。淋しい晩餐でした。
 ポートサイドに着きますと、オーストリアの皇太子様が、セルビアの青年に殺されたというニュースを聞かされてびっくりいたしました。この前の大戦の前奏曲だったのです。ポートサイドでは、有名な鱈のお料理を御馳走になりましたがそのうまかったこと、鱈をトマトとオリーブオイルで煮たものですが、今でもそのおいしかったのが忘られません。
 七月九日マルセイユに着き上陸しました。大きな馬が車を曵いて何台も何台も、とても数え切れないほど通ったのが強く印象に残っておりますが、その沢山な数よりも馬が大きいのでびっくりいたしました。私たちはマルセイユから汽車に乗って、リヨンを通って憧れの都ベルリンへ着いたのが七月十一日でした。
 ベルリンでは、シャーロッテンベルグのフラウ・ドクター・スミスさんのお宅に下宿して、三浦はカイゼル・インスティテュートへ入って勉強を始めました。ここには田丸博士が働いていらっしゃいま…

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