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美女
びじょ
作品ID54459
著者西東 三鬼
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆69 男」 作品社
1988(昭和63)年7月25日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-01-07 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

船欄に夜露べつとり逃ぐる旅

 私はいつも逃げてばかりゐるやうです。それといふのも、私といふ男は、齢五十をとうに過ぎてゐながら、私と同じ生きものである人間、特に女の人に対する抵抗力が実に弱く、まるで生れたての赤ん坊がたやすく風邪をひくやうに、やられてしまふのです。
 はじめ軽いくしやみが一二度出たかと思ふと、アッといふまに肺炎を併発して高熱にうなされるのです。困つたものです。
 そこで私は元々貧弱な勇気をふるひ立てて、女の人に対する皮膚の抵抗力を増進させるため、冷水摩擦のたぐひを試み、あのかぐはしい香気が、人よりも大きな鼻の孔に侵入しないやうにと、マスクなども用ひるのですが、何のたしにもならないのです。
 ごらんに入れた拙い句は、去年の夏、神戸から船に乗つて松山へ行くときのものです。
 そのときも私は例によつて風邪をひきかゝつてゐたのです。こんどの風邪は鼻かぜ位ではすみさうもないといふ予感があつたので、松山にでも逃げ出して、谷野予志先生の長い温顔でも見たら直るだらうと思ひ立つたのです。
 アメリカ語のカラミティといふのは厄病神のことださうですが、どこか日本語の趣もあるやうです。私の風邪の神様は波止場の近くまで送つてくれましたが「どうぞお船が沈没しますやうに」と呪咀を吐ひて、カツ/\と踵の音を立てながら帰つてゆきました。
 波止場まで来なかつたのは、私の若い友人達が見送りに来る事を知つてゐるからです。
 私にも遠い昔に青年時代があつて、大きな船で外国へ出稼に行つた経験があります。その船にくらべて、別府航路の船の何とチマチマしてゐることよ。それでゐてチャンと船なのです。ドラも鳴りますし、出帆の汽笛も鳴るのです。すると眼と鼻の先にゐる人々が、船と陸からテープを投げ合ふのです。
 私の若い友人達は、私がさういふ事を好まないと思つてゐるのか、だまつて突立つてゐるだけで、誰もテープを投げませんでした。
 船はむやみに夜光虫をひつかき廻しながら陸を離れました。私は頭の上の天の川を一寸眺めただけで、すぐ船室に横たはりました。眼をつぶると一つの顔が見え、心の中の風邪はしだいに重くなるやうでした。
 翌朝、松山に着きました。私はほんとは男の友達と談笑してゐる方が好きなのです。ですから予志先生が連中と共に出迎へてくれた時、全くホッと一息ついて、夜と共に去つた、海の彼方の地をふりかへるのでした。沈んでしまへと呪はれた船が沈まなかつたのも結構でした。
 予志先生はどういふものか、いきなり私を街へ連れ出しました。松山といふ街は始めてではありませんが、どうしてあんなに衣類ばかり売りたがるのでせうか。その本通りから丸見えの横町で、一人の犬捕りが、針金の輪を餌物の首にひつかけようと苦心してゐるのは、
炎天の犬捕り低く唄ひ出す
といふ句の作者を歓迎するためでせう。それにしてもこの哀れな野良犬は…

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