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![]() ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 54565 |
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副題 | 250 母娘巡礼 250 おやこじゅんれい |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「錢形平次捕物全集第一卷 恋をせぬ女」 同光社磯部書房 1953(昭和28)年3月25日 |
初出 | 「オール讀物」文藝春秋新社、1951(昭和26)年3月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2015-04-23 / 2017-03-04 |
長さの目安 | 約 32 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「八、あれに氣が付いたか」
兩國橋の夕景、東から渡りかけて平次はピタリと足を停めました。
陽が落ちると春の夕風が身に沁みて、四方の景色も何んとなく寒々となりますが、橋の上の往來は次第に繁くなつて、平次と八五郎が、欄干に凭れて水肌を見入つてゐるのを、うさんな眼で見る人が多くなりました。
「雪駄直しでせう。先刻から三足目の註文ですが、良い働きですね」
「お前も一つやつて見る氣になつたか」
「有難いことに、これでも檀那寺に人別はありますよ」
「雪駄直しぢや不足だといふのか、罰の當つた野郎だ。見て居ると、雪駄直しの合間々々に、往來の人から手紙を受取つたり、懷から手紙を出したりしてゐるだらう、雪駄直しの片手間に、使ひ屋にも頼めねえ文を預かつて居るんだね、細くねえ商法ぢやないか」
兩國の橋の袂の雪駄直しが、お店者や水茶屋の姐さん連の文の受け渡しをして、飛んだ甘い汁を吸つてゐようとは、錢形平次も思ひ及ばなかつたのです。
雪駄直しといふのは、編笠を冠つた爺々むさい男が多いのですが、これは若くて小意氣で、何かの彈みに顏を擧げるのを見ると、編笠の下の顏は二十七八、苦み走つた良い男でさへあります。
「聲をかけて見ませうか」
八五郎は相變らず好奇心でハチ切れさうです。
「待ちなよ、脅かすと鳥が立つ」
「へエ」
「錢の外に膝の下に、眞鍮の花形になつた變なものを持つて居るだらう」
「もう暗くなるから、店を仕舞ふに違えねえ、お前はそつと後をつけて行つて見るが宜い」
「やつて見ませう」
橋の袂に隱れて、雪駄直しが店を片付けるのを待つて、八五郎がその後を跟けて行つたことは言ふ迄もありません。
その頃になるともう、橋の上にも橋の外にも、さすがに陣立ひろげて居る者もなく、謠を歌つてゐた浪人者も、齒磨を賣つて居た居合拔きも、法螺の貝を吹き立てゝゐた修驗者も姿を隱して、橋は暮色のうちに、靜かに暮れて行きます。
その晩亥刻(十時)少し前、八五郎は世にも哀れな姿で、明神下の平次の家へ飛込んで來ました。
「わツ、面目次第もねえが――親分」
などと濡れ鼠になつた姿を上り框に這ひ上つて少し醉つてゐるやうでもあります。
「どうした、八、二つ三つ背中をどやしつけてやらうか」
平次は障子を押しあけて、その體たらくを灯にすかし乍ら、ひどく不機嫌さうです。
「いやもう、それには及びませんよ」
「それとも井戸端へ連れて行つて、釣瓶で二三杯御馳走しようか」
「もういけません、水も酒もお斷りだ。お藏前で散々呑んだが、大井の水はあまり結構ぢやねえ」
「あんな野郎だ、――折角跟けさした、雪駄直しはどうしたんだ」
「その事ですよ、親分、兩國を渡つて、お藏前までつけて行くと、あの野郎いきなり足を留めて、ちよいと親分――と聲を掛けるぢやありませんか」
「フーム」
「どうせ感付かれたものなら仕樣がねえ、と、性根…