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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 54663 |
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副題 | 180 罠 180 わな |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「錢形平次捕物全集第十九卷 神隱し」 同光社磯部書房 1953(昭和28)年11月5日 |
初出 | 「オール讀物」文藝春秋新社、1948(昭和23)年3月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2016-07-03 / 2017-03-04 |
長さの目安 | 約 22 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「こいつは驚くぜ、親分」
ガラツ八の八五郎は、相變らず素頓狂な聲を出し乍ら飛込んで來ました。急に春らしくなつて、櫻の蕾がふくらみさうなある日の午頃のことです。
「驚くよ、八五郎が馬を曳いて來たつて、暮れ以來お手許不如意で、兩と纒まつた金はあるめえよ、なアお靜」
平次はお勝手で水仕事をしてゐる女房に聲を掛けました。
「馬なんか曳いちや來ませんよ」
八五郎の甚だ平かでないのへ押つ冠せて、
「お前と一緒に來て、路地の外に立停つた駒下駄の音はありや何んだえ。近頃流行つてゐる下駄の、それも小股の切上つた輕い音だが」
平次はひどく呑込んだ顏をして居るのです。
「驚ろいたなア、あつしと一緒に歩く小股の切れ上つた女は、馬と極めて居るんですか」
「まアそんな事だらうよ。お前の情婦ならドタドタするし、叔母さんと來ると、少しよろ/\して居る」
「そんな間拔なものぢやありませんよ。今朝麻布に不思議な殺しがあつたんですよ――六本木の大黒屋清兵衞の伜の清五郎が、軒の下に芋刺になつて死んでゐて、掛り人の何んとかいふ娘に下手人の疑いが掛つたから、助けてくれ――とその妹といふのが飛込んで來たんです。そりや良い娘ですよ親分」
八五郎は聲を秘めるのです。その癖路地の外まで筒拔け、十四五の可愛らしい娘が、それを聽かされて今更逃げもならず、袖を頬に當てたり、肩を搖ぶつたり、惱ましい所作を續けて居たことは言ふ迄もありません。
「折角お前を頼つて來たのなら、お前が一人で出かけるが宜いぢやないか。俺なんかの出しや張る幕ぢやなささうだぜ」
「さう言はずに親分」
「近頃はお前の方が人氣がありさうぢやないか」
「からかつちやいけませんよ」
そんな事を言ひ乍らも、平次は手早く支度をして、八五郎と一緒に外へ出ました。
「親分さん――」
何やら口の中で言つて、丁寧にお辭儀をしたのは、まだ肩揚のとれぬ十四五の小娘で、可愛らしさは申分ないにしても、身扮の貧しさと共に、ひ弱さうで、痛々しいものさへ感じさせました。
「六本木から獨りで來たのかえ」
平次もツイ、物の哀れを覺えました。こんな小娘が片跛の下駄を履いて、六本木から神田まで驅けて來るといふのは、容易のことではありません。
「中ノ橋の金太親分が見張つてゐて、姉さんは一と足も外へ出られませんし、此儘放つて置くと、本當に縛られさうなんです」
「で、どんな樣子なんだ。歩き乍ら聽かしてくれ」
平次は少しでも豫備知識を、此小娘の口から引出さうとしましたが、それは何んと言つても無理なことでした。小娘は充分賢こさうではあるにしても、人間と人間との混み入つた關係は、わからないことも多く、わかつてゐるにしても、表現する言葉を持たなかつたのです。
だが、そのたど/\しい言葉のうちから、これだけのことがわかりました。麻布六本木の大黒屋清兵衞といふのは、香具師から身を…