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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 54672 |
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副題 | 166 花見の果て 166 はなみのはて |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「錢形平次捕物全集第十九卷 神隱し」 同光社磯部書房 1953(昭和28)年11月5日 |
初出 | 「オール讀物」文藝春秋新社、1947(昭和22)年2月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2016-05-27 / 2017-03-04 |
長さの目安 | 約 28 ページ(500字/頁で計算) |
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一
菊屋傳右衞門の花見船は、兩國稻荷の下に着けて、同勢男女十幾人、ドカドカと廣小路の土を踏みましたが、
「まだ薄明るいぢやないか、橋の上から、もう一度向島を眺め乍ら、一杯やらう」
誰やらそんなことを云ふと、一日の行樂をまだ堪能し切れない貪婪な享樂追及者達は、
「そいつは一段と面白からう、酒が殘つて居るから、瓢箪に詰めて、もう一度橋の上に引返さう、人波に揉まれ乍ら、欄干の酒盛なんざ洒落れて居るぜ」
そんな事を言ひ乍ら、氣を揃へて橋の上に引返したのです。
暮れ殘る夕暮に、大川の水面を薄紫に照して、向島のあたりは花の霞の裡に、さながら金砂子を撒いたやう。
橋の上は水の面も見えぬまでに、さんざめく船と船、これから夜櫻見物に漕ぎ出るのでせう。まことに『上見て通れ兩國の橋』と言つた、低俗な道歌も、今宵だけはピタリとした氣分です。
「成程こいつは洒落れてゐるぜ、サアサア店を擴げたり擴げたり」
欄干に銘々の盃を置いて、乙女たちが人波に揉まれ乍ら、その間を注いでまはります。
兩國橋の上には、いろ/\の物賣りが陣を布いて、橋の上から水肌まで、桃の皮を剥いで垂らした時代です。交通整理も何もあつたものでなく、橋下の船の中の賑ひと呼應して、庶民歡樂の立體圖をそのまゝ、それはまことに、亂雜の中の秩序、無作法の中の美しさとも言ふべき見物でした。
菊屋傳右衞門は、横山町の大きな金貸しで、五十年輩の酒肥りのした老人ですが、それを圍んで、欄干に猪口を据ゑた一族郎黨は、番頭の孫作、手代の伴造、遠縁の清五郎、隣の小料理屋――柳屋の主人幸七、その女房で良い年増のお角、出入りの鳶頭文次、それに若くて綺麗なところでは、娘のお吉、若旦那の許嫁のお延、下女のお市、御近所の娘お六、お舟のともがらを加へてざつと十五人。
暫らく薄れゆく夕明りを惜み乍ら、差しつ押へつ、欄干の饗宴は果てしもなく續くのでした。往來の人達は、少し苦々しく、この放縱極まる酒宴を眺めて行きますが、當人達は更に驚く樣子もなく、わざと突き當つたり、押しのめしたりする往來の人と、威勢の良い惡口を應酬し乍ら、盃の献酬は、お互の顏の見わかぬまで續きました。
やがて四方が眞つ暗になつて、橋の上の人波もやゝ班になると、菊屋の同勢もさすがに酒も興も盡きます。
「さて、そろ/\歸るとしようか」
主人の傳右衞門が聲を掛けた時でした。花見歸りらしい幾十人かの大きい團體が、揉みに揉んでドツと本所の方から橋の上へ襲つて來たのです。
「危ない/\」
「退いた/\」
除ける間もなく、菊屋の同勢を押し包むやうに揉んで、西兩國の方へ、どつと引いて行きます。
「何んといふことだ」
「隨分亂暴な人達ねエ」
女達が不平たら/\、衣紋や髮飾りを直して居ると、主人の傳右衞門が、
「ウーム」
恐ろしいうめき聲と共に、ガクリと欄干の上に崩折れたのです。
「旦…