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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
作品ID54690
副題305 美しき獲物
305 うつくしきえもの
著者野村 胡堂
文字遣い旧字旧仮名
底本 「錢形平次捕物全集第二十一卷 闇に飛ぶ箭」 同光社
1954(昭和29)年2月15日
初出「オール讀物」文藝春秋新社、1953(昭和28)年10月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者門田裕志
公開 / 更新2017-01-07 / 2017-03-04
長さの目安約 32 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「親分、ちよいと江戸をあけますがね」
 八五郎はいきなりこんなことを言つて來たのです。彼岸を過ぎたばかり、秋の行樂の旅にはまだ早過ぎますが、海道筋は新凉を追つて驛馬の鈴の音も、日毎に繁くなる頃です。
「江戸をあける?――大層なこと言やがるぢやないか、日光へ御代參にでも出かけるのか、それとも――」
 錢形平次は滅法忙しいくせに、相變らず暇で/\仕樣がないやうな顏でした。空茶を鱈腹呑んで、無精煙草を輪に吹いて、安唐紙の模樣を勘定し乍ら、解き切れなかつた幾つかの難事件を反芻し、人と人との愛慾の葛藤の恐ろしさに、つく/″\捕物稼業が嫌になつて居る矢先でした。
「からかつちやいけません。江戸をあけると言つたところで、ほんの三四日。町内の氣の合つたのが、江の島に落合つて、祭の相談でもしようといふ寸法なんで」
「來年の祭の相談は早手廻し過ぎはしないか」
「鬼なんざ笑つたつて、驚くやうな手合ぢやありませんよ。何しろうまいこと用事を拵へて、八方から集まるのがざつと十三人、――どの仲間へも入れなかつた、あつしと相模屋の若旦那の榮三郎が、それを江の島まで迎へて、三日ばかり海を眺め乍ら底拔け騷ぎをやらうといふ計略なんで」
「計略と來やがつたな」
「あつしは御用繁多で江戸を拔けられず、相模屋の若旦那は御新造がやかましくて、物詣での町内附き合ひもさせてくれねえ。そこでこの二人は、相談をして、そつと拔け出し、仲間と江の島で落ち合つて、相模藝者を總嘗めにしようといふ、謀叛を企てたわけで――相模屋には默つてゝ下さいよ。拔け出すのは、明日の曉方の正七つ、まさしく寅の一點」
「お内儀さんに隱れて遊びに行くのを、謀叛でも企らむやうに思つてやがる。良い氣なものだよ、――お前の御用繁多も笑はせるぜ、泥棒猫を追つかける爲に、十手をお預かりしてゐるわけぢやあるめえ」
「叶はねえな、親分に逢つちや――ところで、あつしが旅に出ると二日でも三日でも向柳原一帶は空つぽになるでせう、――相濟みませんがその間、誰かにチヨイチヨイ覗かして頂き度いんで。へツ、お安い御用で」
「あんな野郎だ、――でも、お前もたまの保養だ、行つて來るが宜い。とても、八五郎親分ほどの睨みはきくめえが、お前の叔母さんにも御無沙汰して居るから、俺が時々覗いてやるよ」
「相すみません」
 八五郎は膝小僧を並べて、二つ三つお辭儀をしました。久し振りに江戸を離れて、片瀬から江の島とのし廻し、炭坑節とトンコ節の大氾濫でも喰はせようと言つた、野望に燃えて居る八五郎だつたのです。
 それが九月の十日、その翌る日の九月十一日は、八五郎は相模屋の若旦那と共に、逃げ出すやうに旅へ出た筈、三日目の九月十二日になつて、平次は漸く向柳原の八五郎の厄介になつて居る、叔母さんの家を訪ねる氣になりました。
 まだ五十になつたばかり、元氣ものの叔母さんは、賃仕事などをして…

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