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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
作品ID54723
副題183 盗まれた十手
183 ぬすまれたじって
著者野村 胡堂
文字遣い旧字旧仮名
底本 「錢形平次捕物全集第二十五卷 火の呪ひ」 同光社
1954(昭和29)年5月10日
初出「オール讀物」文藝春秋新社、1948(昭和23)年6月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者門田裕志
公開 / 更新2016-07-12 / 2017-03-04
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 兩國の川開きが濟んで間もなく、それは脂汗のにじむやうな、いやに、蒸し暑い晩でした。その頃上方から江戸に入つて來て、八百八町の恐怖になつた、巾着切と騙りの仲間――天滿七之助の身内十何人を珠數つなぎにして、江戸つ子達にやんやと喝采を送られた錢形平次と八五郎は、町奉行村越長門守樣小梅の寮に招かれ、丁寧なねぎらひの言葉があつた上、別室で酒肴を頂いて、寮を出たのはかれこれ亥刻近い時分でした。
 平次も八五郎も悉く充ち足りた心持で、醉顏を濕つぽい夜風に吹かせ乍ら、兩國橋の上にかゝると、丁度金龍山の亥刻(十時)の鐘が鳴ります。上を見て通れ――と言はれた夏の兩國橋、亥刻過ぎになると、水の面もさすがに宵の賑はひはありませんが、それでも絃歌の響や猪牙を漕がせる水音が、人の氣をそゝるやうに斷續して聽えるのでした。
 八五郎の他愛もない手柄話を空耳に聽き乍ら、丁度橋の中程まで來た時のことです。
「あ、八、身投げだ。後ろからソツと行つて抱き留めろ」
「醉つ拂ひぢやありませんか、親分」
「いや、醉つ拂ひぢやない。死に神に憑かれて雪を踏むやうに歩いて居る――危ないツ」
 平次の言葉を半分聽いて、八五郎はもう行動を起して居りました。月はまだ出ませんが水明りに透して見當を定めると、反射側の欄干の方へフラフラと吸ひ寄せられて型の如く履物を脱ぎ、何やら口の中でブツブツ言ひ乍ら、飛び込まうとする男の後ろから、
「おつと待つた」
 八五郎はガツキと組付いたのです。
「あ、死なせて下さい。お願ひ」
「何をつまらねエ。良い年をしやがつて、死に急ぐことはあるめえ」
 羽交ひ締にしたまゝ、欄干から引き剥さうとしましたが、この身投男は思ひの外の剛力で、容易に八五郎の手に了へません。
「離して下さい。死ななきやならないわけがあるんだ」
「そのわけといふのを聽かうぢやないか。待ちなよ爺さん」
「離して下さいよ。あれ、着物が破けるぢやねえか」
「何を、今死ぬ氣になつたものが、着物くらゐ破けたつて」
「あツ、痛いツ、痛いよ。髻を掴んで引いちや、――無法な人だね、お前さんは」
「少しくらゐ毛が拔けたつて命に別條はないよ。剛情な爺いぢやないか」
「お前さんこそ亂暴だよ」
「何を」
 この不思議な爭ひの馬鹿々々しさを、平次は面白さうに眺めて居りましたが、潮時を見て漸く二人を引離しました。
「八、もう宜い――死に神が落ちたやうだ。髻を掴むのは止せ」
「へエ、呆れた爺いだ。こんなに死にたがる野郎を俺は見たこともなえ[#「なえ」はママ]」
 八五郎はブリブリ言ひ乍ら、それでも老人の側から離れて、自分の衣紋などを直して居ります。
「爺さんも強情過ぎるよ、――死ぬ氣になつたのは、よく/\の仔細があるだらうが、留める方だつて、道樂や洒落ぢやない」
「へエ、まことに相濟みません」
 老人は死に神から解放されて、張合ひ拔けのしたや…

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