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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 54745 |
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副題 | 218 心中崩れ 218 しんじゅうくずれ |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「錢形平次捕物全集第二十七卷 猿蟹合戰」 同光社 1954(昭和29)年6月10日 |
初出 | 「オール讀物」文藝春秋新社、1950(昭和25)年6月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2017-05-07 / 2017-04-18 |
長さの目安 | 約 33 ページ(500字/頁で計算) |
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一
心中でもしようといふ者にとつて、その晩はまことに申分のない美しい夜でした。
青葉の風が衣袂に薫じて、十三夜の月も泣いてゐるやうな大川端、道がこのまゝあの世とやらに通じてゐるものなら、思ひ合つた二人は、何んのためらひもなく、水の中へでも火の中へでも飛び込み度くなることでせう。
神田鍋町の雜穀問屋、三芳屋彦兵衞の甥の音次郎と、同じ店に奉公人のやうに働いて居る、遠縁の娘お京は、晝の内に打合せて置いた通り、その晩の亥刻半(十一時)に、元柳橋の橋の袂で落ち合ひました。
死ぬ約束で同じ店に居る二人が、手に手を取つて脱け出して來るのは容易でなく、萬一人に見とがめられて、引戻されでもすると恥の上塗りですから、音次郎は本所から深川へかけて、お得意先を廻るといふのが口實。最後に相生町の叔母さんの家で宵を過して、元柳橋へ駈けつけた時は、もう相手のお京が、橋の袂の柳にもたれて、苛々しながら待つて居るのでした。
朧月に透して見るまでもなく、磁石と鐵片のやうに、兩方から駈け寄つた二人が、往來の人足の疎らなのを幸ひ、犇と抱き合つた時、
「まア、よかつた」
お互にさう言つたのも無理のないことです。
「誰にも見付かりはしなかつたかえ」
音次郎は少し離れて、月の光に惚々とお京の顏を透しながら訊くと、
「え、皆んなはもう私が寢たことと思つてゐるでせう。いつものやうにお仕舞をして、叔父樣の肩を揉んで、戸締りを見廻つて、自分のお部屋へ入つて――、それからそつと脱け出して來たんですもの」
この期に臨んでもさすがに若い娘は行屆きます。
「大層綺麗だよ、今夜は」
そんな中でも嗜みの化粧をして、晴れ着の銘仙の袷、死出の旅は、嫁入りするやうな晴れがましさでせう。
「でも」
お京は身を揉んで、極り惡さうに、男の懷中に顏を埋めます。夜風の匂ふのは、娘の體温に薫蒸された、掛香らしい匂ひ。
「私は本所のお得意先から預かつて來たお金が三十兩、これをお店へ屆けずに死んでは氣になるけれど――」
音次郎は内懷中深く忍ばせた財布の中の、三十兩の小判に氣が遺る樣子でしたが、今更それはどうすることも出來ません。
やがて二人は、元柳橋の橋の下に繋がれた小舟を一隻、纜を解いて川の中流に漕ぎ出しました。音次郎は少しばかり櫓がいけるのと、岸から川へ飛び込んで、うつかり人に騷がれでもしては、とんだ恥を曝すことになるので、大川の中流を二人の死場所と定めたのです。
「お京さん、淋しくはないかえ」
櫓の手を止めた音次郎は、滅入るやうな淋しさと、燒きつくやうな焦燥と、全く違つた二つの感情にさいなまれて、舟縁に危ふく縋りついてゐる、お京の側へ膝を突きました。
夜の上げ潮が靜かに兩國橋の方へ、二人を乘せたまゝの小舟を流して行きますが、たま/\山谷堀へ通ふ猪牙舟が、心も空の嫖客を乘せて、矢のやうに漕ぎ拔ける外には、二人の…