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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
作品ID54752
副題222 乗合舟
222 のりあいぶね
著者野村 胡堂
文字遣い旧字旧仮名
底本 「錢形平次捕物全集第二十八卷 遠眼鏡の殿樣」 同光社
1954(昭和29)年6月25日
初出「オール讀物」文藝春秋新社、1950(昭和25)年10月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者門田裕志
公開 / 更新2017-05-20 / 2017-03-15
長さの目安約 32 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 八五郎は獨りで、向島へ行つた歸り、まだ陽は高いし、秋日和は快適だし、赤トンボに誘はれるやうな心持で、フラフラと橋場の渡し舟に乘つて居りました。
 懷中はあまり豐かでないが、新鳥越の知合を訪ねて、觀音樣へお詣りして、雷門前で輕く一杯呑んで、おこしか何んか、安くて嵩張るお土産を買つて、明神下の錢形の親分のところへ辿り着くと、丁度晩飯時になる――と言つた、まことに都合の良いスケジユールを組んで、舌なめずりをしながら、向う岸の橋場に着くと、船頭の粗相か、客が降り急いで、船を傾けたせゐか、乘合船は思ひも寄らぬ勢ひで、岸から張り出した足場へ、ドシンと突き當つたのです。
「あつ」
 八分通り船を埋めて出た乘合は、先を急ぐともなく總立ちになつたところ、見事な煽りを喰つて、どつと雪崩れました。危ふく將棋倒しになるのは免れました。が、
「あれツ」
 端つこに立つて居た八五郎は、側に居た若い女に獅噛みつかれて、一とたまりもなく船の外へ、横つ倒しに飛び出してしまつたのです。
「あ、ぷ、ぷ」
 八五郎は少しばかり水を呑んだかも知れません。が、胃の腑が丈夫な上、その頃の隅田川は、底の小石が讀めるほど水が綺麗だつたので、大した神經を病む必要もなかつたのです。
 川はもう淺くなつて居て、立てば精々膝つきり、命に別條のある筈もなかつたのですが、何分にも双手を懷中に突つ込んで、だらしのない彌造を二つ拵へて居たので、水中の働き思ふに任せず、船頭に襟髮を取つて引揚げられた時は、實に思ひおくところなくヅブ濡れになつて居りました。
「濟みません、親分。飛んだ粗相で」
 相手が惡いと思つたか、船頭は鉢卷を取つて挨拶しました。
『――うぬがどぢのせゐぢやないか』と腹の中では思つたにしても、稼業柄ポンポン言ふことも出來なかつたのです。
「なアに、此方もうつかりして居たんだ。心配することはないよ」
 八五郎は人の好い事を言ひながら、袖やら裾やらを絞つて居ります。
 明る過ぎるほどの晝過ぎの陽を受けて、それは實に慘憺たる姿でした。困つたことに、人の氣も知らない彌次馬が、近くから遠くから、ヌケヌケとした顏で、或は素知らぬ顏で、燃え付くやうな好奇の眼を光らせて、雷鳴が鳴つても動きさうもありません。
「親分、飛んだことをしてしまひました。私はまア、何うしませう」
 八五郎の濡れた鼻は、何やら床しい匂ひにときめきました。顏を擧げると直ぐ前に、やるせない小腰を曲めて、消えも入り度い風情に、丸い肩を揉んでゐるのは、二十二三の美しい年増――それは紛れもなく、ツイ今しがた渡船の中で、八五郎に突き當つた、當の相手だつたのです。
「なアに、大したことはありませんよ。逆上が下がつて、宜い心持で、――ハアクシヨン」
 などと、八五郎は他愛もありません。
 それほど相手は美い女であり、素直な痛々しい態度でもありました。
 ほの温…

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