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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
作品ID54769
副題320 お六の役目
320 おろくのやくめ
著者野村 胡堂
文字遣い旧字旧仮名
底本 「錢形平次捕物全集第三十四卷 江戸の夜光石」 同光社
1954(昭和29)年10月25日
初出「オール讀物」文藝春秋新社、1954(昭和29)年5月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者門田裕志
公開 / 更新2017-02-05 / 2017-03-04
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「あ、八五郎親分ぢやありませんか」
 江の島へ行つた歸り、遲くもないのに、土藏相模で一と晩遊んだ町内の若い者が五六人、スツカラカンになつて、高輪の大木戸を越すと、いきなり聲を掛けたものがあります。
「誰だい、俺を呼んだのは」
 振り返ると、海から昇つた朝陽を浴びて、バタバタと驅けて來た女が一人、一行の前に廻つて、大手を擴げるではありませんか。
「巴屋のお六よ、忘れたぢや濟まないでせう。家は、大變な騷ぎ」
 女は早立ちの旅人が、眼を聳てるのも構はず、八五郎の袂を取つてグイグイと引くのです。
「待つてくれ、無闇に引つ張ると、袖口がほころびる。家へ歸ると、叔母さんに叱られる」
「冗談ぢやない。紅白粉で、裲襠を着た叔母さんがあつたまるものか。此方には人殺しがあつて二三人縛られかけて居るんだから、來て下さいよ、親分。何んの爲めに十手なんかブラさげて、江の島詣りをするんだい」
 女はまくし立てて、八五郎を引張るのです。高輪車町の巴屋といふのは、江戸の土産物も賣り、店では一杯飮ませて、中食も認めさせますが、横へ廻ると立派な旅籠屋で、土地も家作も持ち、車町から金杉へかけての、物持として有名な家でした。
 一昨日江戸を發つとき、巴屋へ押し上がつて、旅の前祝ひの大騷ぎをやらかし、二人の女中、お六とお梅といふのを、散々からかつたことは、八五郎も忘れる筈はなく、相手のお六も、品川から朝立ちで、江戸へ戻つて來た賑やかな旅人の中から、八五郎の長んがい顎を見付けたのも無理のないことでした。
「人殺しは穩かぢやねえ。誰がどうしたんだ」
「旦那が殺されたんですよ。金杉の竹松親分が乘り込んで來て、ギヨロギヨロ睨め廻して居るから、氣味が惡くて皆んな顫へ上がつてゐますよ。八五郎親分なら、地藏樣でも縛つて行つて下さるわねえ」
 三日前の晩の、羽目を外した騷ぎを知つてゐるので、お六はすつかり八五郎を甘く見てゐる樣子です。尤も、神田を發つたのは遲かつたにしても、馴染があるとか何んとか、仲間の者に誘はれて、高輪で宿を取つてしまひ、『おいとこさうだ』に『炭坑節』『トンコ節』から『東京ブギ』の類ひまで踊つたり唄つたり、あらゆる醉態を見せた一行の、オンド取りの八五郎が、お六に甘く見られたのも無理のないことでした。
 このお六といふのは、渡り者の大年増で、中低で盤臺面の、非凡の愛嬌者で、高輪の往來――遲發の旅人の、好奇の眼を見張る中から、八五郎をしよつ引いて、巴屋の店に飛び込むほどの勇氣と腕力を持つてゐたのです。
 入つて見ると、巴屋は表戸をおろしたまゝ、中の騷ぎは大變でした。主人山三郎は、裏庭の崖下に、石の地藏樣を抱いたまゝ轉げ落ちて、その上、刺身庖丁で首筋を深々と刺され、更に、縞の前掛で顏を包んで、眞田紐でその上を、耳から眼、鼻へかけて縛つてあるのです。
「おや、向柳原の八五郎兄哥ぢやねえか」
 暗い中…

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