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故郷を辞す
こきょうをじす
作品ID54831
著者室生 犀星
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻41 望郷」 作品社
1994(平成6)年7月25日
入力者門田裕志
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2013-01-28 / 2014-09-16
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 家のものが留守なんで一人で風呂の水汲をして、火を焚きつけいい塩梅にからだに温かさを感じた。そして座敷に坐り込んで熱い茶を一杯飲んだが、庭さきの空を染める赤蜻蛉の群をながめながら常にない静かさを感じた。空気がよいので日あたりでも埃が見えないくらゐである。となりの家の塀ごしに柘榴が色づいてゐる。まだ口を開けてゐない。この間まで花が着いてゐたのにと物珍らしげな眼をあげてゐると、灰ばんだいろをした小鳥が一羽、その茂りの枝を移りながら動いてゐる。わたしは茫然とそれをながめてゐるうちに、穏やかな日ざしがだんだんとなり家のひさしへ移つてゆくのに気づいた。
 門前の川べりへ出て見ても、毎日眺めてゐる山山の景色にも痩せた皺や襞をもの侘びしく眺めた。怒つたあとのやうな疲れが山肌に見え、とげとげしさが沈んで見えた。川の瀬も澄んで鮎屋が昨日もつて来ての話では、もう下流でないとゐないと言ひ、このあたりにゐるのは若若しく寂びてゐないから味さは味いが、かぞへる程しかゐないと言つた。九月の終りころから鮎は寂びたが、十月になつてから一さうさびしく寂びてしまつた。この夏は門の前の瀬に網を打つ漁師を呼んで、毎日のやうに鮎を食膳に上したものであつた。春浅いころまだ一寸くらゐの鮎をながめてゐたわたしは夏深くなるごとにかれらの育つて行くのが眼に見えた。美しい柔らかい肌をしてゐたかれらが、もう卵を胎んで尾の方から黄ろくなりかけてゆくのや、荒い瀬なみを抜けきることのできなくなつてゐるのや、流れを下るだけで上ることのないのを、何かやはり人情の中のものにくらべながら思ひ出したのであつた。
 季節はもう二度の秋をわたしに送らせてゐる。わたしは田舎にあいてしまつたが、さて此の田舎を後にして東京へ行つても、又田舎を慕ふやうになるだらうと先き先きのことを考へ、やはりもうしばらくゐようと思つてゐる。田舎では古い旧友がたづねて来たり、その旧友が昔と変つて人なつこさうに話しこんでゐるありさまをみると、わたしの方が余程冷淡になつてゐることに気づいた。旧友はそのころの友だちのだれかれの暮しや、その立身出世のことを話しながら幼時の忘れがたい昔語りに熱心ではあるが、わたしは自分のことも人事のやうにきき流す張り合ひのない聞手になるくらゐであつた。そしてしまひにはそんなむかしの事などはどうでもよいといふ気になり、黙つて返事もいいかげんにして了ふのであつた。旧友はそんなことに気づかない。たまに訪れた故郷の有様や移変や人情について縷縷として尽きるところがなかつた。わたしはさういふ人情に一と月に一ぺんくらゐ出合つては、しまひには煩さく物悲しくなるのだつた。そればかりではなく、さういふ人人と一しよに食事なぞしなければならない破目になると、わたしはやはりめぐり合うた旧友のために、不幸な半夜を送らねばならない自身のことを、頼りなく又限りなく厭は…

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