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![]() つりじゅうにかげつ |
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作品ID | 54833 |
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著者 | 正木 不如丘 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「集成 日本の釣り文学 第四巻 釣りと旅と」 作品社 1995(平成7)年12月10日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2013-01-10 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 22 ページ(500字/頁で計算) |
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一月
二日早起諏訪湖畔から小淵沢迄汽車、富士見駅から超大型のリユツク・サツクを背負つて、名取運転手乗り込む。去年正月伴れて行つた小使君は、御勘弁願ひますと逃げてしまつた。穴釣りの面白さは分つても、寒さには降参したらしい。名取のリユツク・サツクには、炭二貫目、石油缶を二つぎりにした火鉢二ツ、それに餅一臼は入つて居るだらう。
小淵沢でしばらく待つと東京からの夜行がつく。毎年二三人の同好の士が来る。小海線へ乗り換へて、急傾斜の上りになる。小泉、大泉と海抜と共にすばらしい景色になる。
車中の客皆立ち上つて窓外を見る。東南の方大富士がスラツと立つて裾を曳く、その右に目近く南アルプス連峯、甲府盆地は朝靄の糢糊として人生生活はまだ見えない。
西北反対側の車窓に眼を転ずると、鼻先に八ヶ岳連峯が刻々と姿を変へて行く。毎週一回富士見東京間を往復して居る私は、富士見への帰路長坂駅近くなつて、右車窓に見える八ヶ岳のとゝのつた何処か女性的な姿を見て、
わが山の八ツ安泰に秋の空
の一句を吐いたほど、二十年近く、この山に親しんだのであるが、小海線から見る八ツは、わが山、とはどうしても見えぬ荒い感じの山に見える。八ツの正面は長坂から富士見迄で、小海線からは横顔である。
小泉駅から鉄路は富士川支流の川俣溪谷を右窓から見下される。水量は余り多くないが、山女魚岩魚が棲んで居る。滝が向ふ岸から落ちて居るのが見える。滝の名は知らないが、入江たか子の滝である。「月よりの使者」と云ふ映画に出た滝である。この映画の原作は久米正雄君であるが、富士見高原療養所の看護婦を主人公にして居るので、ロケーシヨンには入江たか子さんや高田稔君が富士見へ来た。あのロケーシヨンの頃、入所患者が浮世を感じたと見えて、毎晩催眠剤を請求して困つたのを今も思ひ出す。
そのロケーシヨンの下調査の時、私はこの辺で富士の見える所は、みんな富士見高原と思つて居ます、と話して、小海線も一応見て下さいと云つたのである。それでこの滝もロケーシヨンに入つたのである。
あの頃は小海線がやつと開通したばかりであつたが、私はそれ迄にもう二回通つて居た。最初は鉄路が清里迄やつと出来て、汽罐車だけ試運転をした時であつた。景色のすばらしさを私に宣伝させる下心があつてか、私にその試運転に便乗する交渉があつたのである。私はスイスの高山を見物して帰つた後なので、申訳ない事ながら、日本の景色ぐらゐたかが知れて居ると、いさゝかならず軽蔑して、この試運転に便乗したのである。ところが私は全くあきれ返つてしまつたのである。こんなすばらしい景色が日本にこそあつたのである。
その後私の友人で、わがスイスが居るので、彼氏をだまして一度この線へつれて来た。彼氏曰く、これはすばらしい、全く日本ばなれがして居る、と。ほめ方に日本ばなれと云ふのは不届であるが、とにかく…