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日本の庭
にほんのにわ
作品ID54867
著者室生 犀星
文字遣い新字新仮名
底本 「世界教養全集 別巻1 日本随筆・随想集」 平凡社
1962(昭和37)年11月20日
初出「日本の庭」1943(昭和18)年
入力者sogo
校正者Juki
公開 / 更新2013-04-27 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 純日本的な美しさの最も高いものは庭である。庭にはその知恵をうずめ、教養を匿して上に土を置いて誰にもわからぬようにしている。遠州や夢窓国師なぞは庭の学者であった。そうでない名もない庭作りの市井人が刻苦して作ったような庭に、匿された教養がある。
 庭をつくるような人は陶器とか織物とか絵画とか彫刻とかは勿論、料理や木地やお茶や香道のあらゆるつながりが、実にその抜路に待ちかまえていることに、注意せずにいられない。結局精神的にもそうだが、あらゆる人間の感覚するところの高さ、品の好さ、匂いの深さにまで達しる心の用意がいることになる。人物ができていなければ庭の中にはいってゆけない、すくなくとも庭を手玉にとり、掌中に円めてみるような余裕が生じるまでは、人間として学ぶべきもののすべてを学んだ後でなければならぬような気がする。鉄のような精神的な健康もいるし、一茎の花にも心惹かれる柔かい詩人のたゆたいが要り、十人で引く石も指一本で動かす最後の仕上げにも、徹底的な勝利をも目ざしてその仕事につかねばならぬ。はいり込んで行けば生やさしいことは一つとして存在していない。この世界では、もうよかろうという言葉や、いい加減にしておこうということは、忌み嫌われる。進んだら退くことを知らぬ。庭作りの最後は財を滅ぼし市井の陋居に閉息するものが多い。

 庭を見るということもその日の時間がたいせつであって、朝早く見て美しい庭もあろうし、午後の斜陽の射すころに栄える庭もあろうから、その庭の主人にいつごろがいいかということを打合せする必要がある。いきなり訪ねて庭を見せてくれということは無躾であって、読書している机のそばにいきなり訪ねて坐り込むようなものである。たいていの庭は午前なら十時ごろまでは日の射し方もななめにはしっているから、直射する午後一時から三時ごろを避ければ、夕方はどういう庭でも美しいという理由で、この二つの時間に庭を見ることで間違いはなく、無礼でないかも知れない。
 夕方も大して暗くならない日没前一時間くらいなら、春夏秋冬を通じてまず夕暮の庭を見ることで、時間的に効果が多い。
 その日没後すっかり暗くなるまでの庭を見、庭が夜の中に沈み込むのを見おさめることは、庭というものの精神を見てやるようなものである。しかしそれはその庭の主人がいつも見ているだけで、他人が見られない奥の深いところかもわからぬ。庭が夜の中に、襟を正して身づくろいしながら褥にはいるときは、その庭にあるものが一さいに融けあう美しい瞬間である。花も石も、木の幹も、みなそれぞれに見る人の心につながって来る。見る人に物思いがあり人のことを考えているなら花も、木、石も物思いの美しさを加え、殖やしてくれる。建築、造園、教養、叡智、学問、そんなものに思いをひそめている人がいたらその人は庭をみながら柔かく教養、叡智の捌け口を、手つだってくれ…

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