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ふるいこよみ
作品ID54887
副題私と坪内先生
わたしとつぼうちせんせい
著者長谷川 時雨
文字遣い新字新仮名
底本 「長谷川時雨作品集」 藤原書店
2009(平成21)年11月30日
初出「報知新聞」1935(昭和10)年3月4日~5日
入力者kompass
校正者Juki
公開 / 更新2013-08-09 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 坪内先生は、御老齢ではあったけれど、先生の死などということを、考えもしなかったのは我ながら不覚だった。去年朝日講堂で、あの長講朗読にもちっとも老いを見せないで、しかもお帰りのおり、差上げた花束を侍者に持たせて、人ごみの出口で後から、とてもはっきりとした声で私の名を呼ばれ、笑い顔で帽子をつまみあげられた元気さに、今年五月早大内の演劇博物館で挙行される、御夫妻の喜の字と、古稀と、金婚式と、再修シェークスピヤ四十巻完訳のお祝いのことばかりがうれしくて念頭に離れなかった。
 劇作もなまけ、なんの見て頂くような作品も出来なかったので、先生を訪問することも大いに怠っていたが、去年からひそかなもくろみを心のなかで成長させていた。しばらく書かない振事劇を書いて、喜の字のお祝いにデジケートすることで、もとよりこれは「燦々会」同志の労をかりて、先生に読んで頂くばかりでなく見ていただく心組みだったのだ。
 それにつけて思い出すのは、卅年から前に、お訪ねした余丁町のお家では、三味線の音が、よく奥からきこえていたことだ。士行さんも浜町の藤間に通われ、おくにちゃんも、おはるさんも、大造さんも、先生のお家の人はみんな舞踊の稽古にいそしんでいた。
 先生は、私が「浮舟の巻」という題で、二幕ものの、「源氏物語」宇治十帖の中の浮舟のことを書いてゆくと、それに目を通してくださりながら、二幕目に大薩摩があって、浮舟の君と匂う宮のすだまとの振事じみたところがあると、急に顔色がうごいて、節をつけて朗読なさりはじめた。そして無条件に気に入ったと見え、杉谷代水氏に見せるから置いてゆけといわれ、すぐに誰方だか呼ばれ――代水氏だったかも知れない。も一度節をつけて読んでくださって、それがそのころ権威ある「早稲田文学」誌上に載せられた。
 そんなことでか、もしくは、この弟子が、すこしばかり音曲を解するので、教えておいてくださろうとの御志であったのであろうが、御自分の作に節がつき振がつくとよく御案内くださった。「お七吉三」の試演が、余丁町の舞台である日、その前日の下ざらいを拝見して、その日の舞台を楽しみにしていると、速達が来たりした。
 いまこれを書きかけたところへ、急用の人が来て、締切りも時間も間にあわず残念ながらつい先日人に見せた、先生自筆の速達絵はがきが見つからないが、文意はこうだった。
 ――今日試演前に、も一度下ざらいするが、直した箇所があるから、見にきてくれ。
 かつて夏目漱石、森鴎外、坪内逍遥と、大きな名をならべて、過分な幸福を授けてくださった、あたしたちの「狂言座」の三先生は、坪内先生を失って、もうみなこの世に在さずなってしまった。
 それは寒い、ちぢれあがるような冬の日の夕方だった。車は夏目先生のお宅を目ざして走っていたのだが、門の前へ着くと、丁度五時の、先生の散歩の時間になっていたので、坪内先…

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