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ひじりの家
ひじりのいえ |
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作品ID | 54906 |
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著者 | 柳田 国男 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆86 祈」 作品社 1989(平成元)年12月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 阿部哲也 |
公開 / 更新 | 2013-01-31 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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日向路の五日はいつも良い月夜であつた。最初の晩は土々呂の海浜の松の蔭を、白い細かな砂をきしりつゝ、延岡へと車を走らせた。次の朝早天に出て見たら、薄雪ほどな霜が降つて居た。車の犬が叢を踏むと、それが煙のやうに散るのである。山の紅葉は若い櫨の木ばかりだが、新年も近いのにまだ鮮かに残つて居る。処々の橋の袂、又は藪の片端などに、榎であらうか今散りますとでも云ふやうに、忽然として青い葉をこぼし始め、見て居るうちに散つてしまふ木がある。土持殿の御支配の頃から、否々皇祖御東征よりも更に以前から、海に近い県の里の野原では、寒い霜夜の月の明方ごとに、斯うして物の緑が土に帰して居たのであらうが、或時或旅人が通り過ぎて、之を美しいと見るのは瞬間であるなどゝ、自分は有りふれた斯んな事を考へ出した。それといふのも自分が今尋ねて行く人の境涯が、余り我々の生活と変つて居る事を、想像しながら来たからであつた。
南方の竜仙寺さんと謂つて尋ねて廻つたが、不思議と誰も知つた人には逢はぬ。そんな筈は無いのだ。内藤家の御祈願所の、随分名の有る法印さんだと聞いて見る。それならば野田の稲荷山の行者殿に違ひない。もう此辺には他に無いからと謂ふので、旭がさして来た松山の霜解けを、こつ/\と登つて見た。縞の着物に角帯の、髪は一寸も延ばした老人が、果して訪ねる谷山さんであつた。日向に移住して来て既に十七代に為る。本国は大和で谷山覚右衛門と云ふ人、土持家の盛りの頃に兵法の師範として、子息の重右衛門を連れて下つて来た。所領は山の麓の大貫村で、野田山に砦を構へ、稲荷は即ち其城内の鎮守であつた。世中が改まつて内藤氏の藩が出来た時、只の臣下で居る代りに山伏に為つてしまつたが、それでも火事に遭つてこの山上に移つた父の代までは、大貫の元の屋敷に引続いて居たさうである。稲荷大明神の右手には広い平地が有つて、其中央に井戸がある。之を前に取つて今の住居が、背戸を谷間に臨ませて、幽かながらも城地の俤を遺して居る。明治五年に修験の職は廃せられたが、関東諸郡の山伏のやうに、神主やたゞの農家に為らうとはせずに、作州津山の在から潰れ寺の名跡を買ひ、表向きこれを引移したのが竜仙寺で、土地の人もまだ其名を知らぬ位である。以前の名は明実院、それを法印は御自分の名にして御座る。
鎮守の稲荷様は御寺だけに、[#挿絵]枳尼天として祀つてある。詣る人が今風だから、華曼や提灯の真赤なのも仕方が無い、自分は帰り途にその数多い鳥居の下を通りながら、是とは縁も無い津軽の海岸の荒浜を思ひ浮べた。今年初秋の風の早大いに冷かな朝であつた。一つ事ばかり考へながら、独りあの浜手の淋しい路を歩いた。曾て深浦沿革史を世に公にした海浦さんと云ふ人は、名が義観だから或は僧侶だらうとは思つたが、あんな阿倍比羅夫の直系見たやうな、昔の儘の山伏だらうとは考へて居なかつた。自分まで…