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作品ID | 55100 |
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著者 | 吉川 英治 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「日本の名随筆26 肴」 作品社 1984(昭和59)年12月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 川山隆 |
公開 / 更新 | 2013-06-11 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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おととしより去年、去年より今年と、一冬ごとに東京に殖えて来たものに河豚料理がある。街の灯が白くなる冬になると、河豚屋のかんばんが食通横丁に俳味を灯す。
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県令を以て、「河豚料理販売ヲ禁止ス」の県は、今でも地方にある筈である。東京にその制が解かれたのもつい近年のことだそうだ。僕が味を覚えたのは、六、七年前で、多分直木の好みであったろうと思う、われわれ達で雑誌を出そうという話があり、新橋の大竹に集ろうというので行ってみると三上、大仏、佐々木、直木などの連中が、雑誌の話などはいっこうに出ずに、箸と妓と杯に終っている。そこで、真ん中にいたのが、錦出の大皿に紫陽花のごとくならべられてある僕には初対面の河豚の肉だった。
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いやだというのに、この晩、ヒレ酒の味を僕に覚えさせたのが三上於菟吉で、飲んでみると口あたりがいい、こっぷ酒など、見ても眩いを催す僕が、うかと二、三杯やったために、この夜の帰り途、君子の過ちに似た事を起して、僕は旅の空で一年暮してしまった。決して、於菟吉のせいではない、やっぱり河豚は中たる。
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行動的の中毒り方はいろいろあろうが、食後三十分間後、すぐに死斑を顔に生じるような怖れなどは、絶無だと僕は信じるほうの組だ。河豚をこわがっている人が、自動車に乗って東京を歩くなどは以てのほかだろう。下ノ関の大吉だか春帆楼かで、頭山満翁が、卓上の料理が河豚だと聞くと、いきなり起ってそれへ小便したという話はあるが、あの頃よりは、河豚の科学はずっと進歩している。危険率も今日の都会の如くでなかったから、河豚といえど避けて通る理由があった。
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長州の旧藩制度には、家士にして河豚を食して死んだ場合は、家禄没取、家名断絶というきびしい掟があった。だから、萩や山口の藩士が河豚を食うのは、生命がけどころか、先祖末代がけであった。そのせいもあろうが、ほんとの河豚料理法はここで発達したものだという。下ノ関が、河豚の本場のようにいわれだしたのは、河豚癖のある伊藤、山県、井上、などの維新の元勲たちが、お国物を阿弥陀寺町で鼓吹したためで、明治以後の地理的発達によるのだと、萩の河豚党は、今も宗家をもって任じている。
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出雲の大社あたりでは、旅館の膳にも河豚がつくそうである。山陰あたりでも冬は河豚が盛んに供されるそうだが、まだ裏日本の河豚は僕は知らない。「なめらふぐ」という種類で、まずいという人もある。金沢の卯の花漬は、焙って食べるもので、これは人が珍重がる。萩の桜漬も焼いて食うのであるが、チリ、刺身を思っては、その味は遠い。
別府に、冬を半月ほど暮していた間、晩になると河豚をたのしんだが、味もよし、女中のあしらいも綺麗事で、東京に近ごろ殖えたのとは比較にならない…