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薄暮の貌
はくぼのかお |
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作品ID | 55133 |
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著者 | 飯田 蛇笏 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本の名随筆 別巻25 俳句」 作品社 1993(平成5)年3月25日 |
入力者 | 門田裕志 |
校正者 | 仙酔ゑびす |
公開 / 更新 | 2013-01-04 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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暦の上では、もう初秋だとは云ふものの、まだ残暑がきびしく、風流を心にたゝむ十数人の男女を打交へた一団にとつて、横浜の熱閙を避けた池廼家の句筵は、いくぶん重くるしさを感ぜしめた。細長い路地に、両側を[#挿絵]かなにかの生籬にしてあるのはいゝとして、狭い靴脱から、もう縁板がいやに拭き光りがしてをり、廊下を踏んでゆくと、茶黒い光沢を帯びたものが韈を吸ひとるやうにひつぱるのである。料理屋へ、風流気に出かけて先づ天井を眺めるなどは、嘗て一度さへ体験にとゞめたとも覚えない。それであるのに、不思議に、煤けた天井板が、ずんと脳天へひゞき、圧せられるやうな懶い一種廃頽的な感じが身をとりまいた。
「情死でもあつたのかな、こいつは」と、心でそんな想像をしてみたりしながら、予定されてあつた座に着いたのである。二間をぶつ通した天井は煤けた上に実際低過ぎた。かうした落着いた会席ではあるものの、世故を離れた虚心坦懐な気持で、冗談の一つや二つ飛ぶのは当りまへである。さうすると、男女の笑ひさゞめく声が、しばらくの間、低い天井下の空間に満ちわたり、おのづから此方へも微笑を強要してくるに違ひないのだが、さて、微笑を洩らすうちにも、一枚頑固に剥ぎとれないものは、くすんだ悒鬱である。
夕陽は影をひそめたかして、部屋の隅々が仄かな陰を漂はせはじめ、人と人との間には、親しみをひとしほ濃やかならしめるやうな陰影が横たはつてゐることを感じた。さつき誰か起ち上つて紙片をなげしへ貼りつけたやうに思つたが、その紙片の文字に眼をとめて見ると、この句筵の課題が示されてゐるのであつた。その課題により、まづ案じ入らうとしてじつと心を落ちつけようとすると、仏臭い線香の匂がぷうんと鼻を掠めた。見るともなく座辺に眼をとめると、蚊遣線香が窓内へ置かれてある。溝の匂が、蒸し蒸しする薄暮の暑気に交つて流れてくる中に、かぼそい薄煙を漂はせてゐるのである。さうした匂のほかになにか獣臭い匂が、たま/\鼻を掠めるやうに感じたので、不審に思つてゐると、窓から少し離れた箇所に座を占めてゐる一人の老作家と、若うして窈窕たる女性とが、ぽつ/\とシェパードの獰猛性に就いて話してゐるのである。で、さつきから、なにかぱた/\と小団扇で肌を叩くやうな音がすると思つたが、それは、直ぐ窓外の小舎に猛犬のシェパードが飼はれてをり、時々肢で蚊を追ふために頸輪を打つ音だといふことがはじめて判つた。畜類の悪臭も、其処から薄暮の空気に漂ひ流れるものであつた。
秋を剃る頭髪土におちにけり
と、こんなのが一つ出来あがつた。現在の呼吸に直接するものではなく、山寺かなにかの樹蔭で、坊主頭に、髪を剃りこくつてゐる、極端に灰色をした人生が思ひに浮んだのである。しかし、これは現在こゝろざすところに、余りにも遠く離れすぎてゐるものなので、別に心へとゞめることとして、
あらがねの土秋…