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仮面
かめん |
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作品ID | 55159 |
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著者 | 正宗 白鳥 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「正宗白鳥全集第六卷」 福武書店 1984(昭和59)年1月30日 |
初出 | 「文章世界 第十一巻第七号」1916(大正5)年7月1日 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 山村信一郎 |
公開 / 更新 | 2014-08-27 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 22 ページ(500字/頁で計算) |
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一
五月も末になつてゐるのに、火鉢の欲しいほどの時候外れの寒さで、雨さへ終日降りつゞいた。
午過ぎから夜具を被つて横になつて、心を落着けようと努めてゐた馬越は、默してぢつとしてゐればゐるほど、頭の中の狂暴に堪へられなくなつた。其處等にある家具を片端から打壞すか、誰れかを打つか蹴るかしたなら、いくらか頭が輕くなりはしないかと思はれた。右へ轉んだり左へ寢返つたりしてゐたが、少しも睡りは催されなくつて、電燈の點くころになつた。
電球がぱつと赤くなると同時に、彼れは跳ね起きて、帽子も冠らずに、二階を下りて外へ出たが、心の荒れてゐるのとは打つて變つて、階子段を踏む足音も、障子や格子戸を開ける音も穩やかだつた。周圍を憚つてゐるやうに擧動が靜かだつた。が、傘に重たげに肩を掛けて行く先の定めなく其邊を歩き出した彼れは、電車や自動車の行き交ふ大通へ足を入れるのが自分ながら危險に思はれるくらゐに頭が亂れてゐる。ある新聞の取次店の前には、傘や蝙輻傘が押し合つて、角力の勝負札を見てゐた。さま/″\な批評も人々の口から出てゐた。
馬越もふと足を留めて、傘と傘との間から今日の勝負を見て、二つ三つ番狂はせと思はれるものを心に留めてから通り過ぎた。世間の事を考へるどころではない彼れも、嘗て見たことのある力士の顏形や、國技館の土俵の光景を念頭に浮べた。度外れに大きな體格をしてゐる力士を空想してゐると、彼等は肉體の力ばかりで確實に生きてゐるやうに見えて、馬越自身などは靈魂ばかりでふは/\と生きてゐるやうに思はれた。しかも彼れの靈魂は汚く黝ずんでゐて、艷も光もなかつた。
青々と繁つた並木の葉末には、電燈の光が雨にきら/\してゐる。冷たい風が傘の上にぱら/\と雫を落した。それ等の音も光も色も彼れは間違ひなく見聞きし得られる五官を具へてゐながら、自分の知りたいことの些とも分らないのが齒痒かつた。……死後の世界を知らうとか宇宙の外を知りたいとかいふやうな大それた願ひを、この頃の彼れは抱いてゐるのではないが、只目の前に起つてゐる事の眞の姿を明ら樣に知りたかつた。
で、彼れは自分の家へ歸りかけた足を轉じて、浮つかり電車に乘つた。妹に會つたつて何の甲斐もないとは思ひながら、妹の嫁いでゐる櫻田町の北川の家へ向つた。電車の内でも角力の噂がされてゐたが、電車を下りてからも、彼方此方の店先で、誰れが負けたの勝つたのと、興ありげに語られてゐた。
妹のおすぎは夕餐の支度に取り掛つてゐたが、何時の間にか茶の間の入口に突立つてゐる兄の顏が目につくと吃驚した。
「默つて入つて來るんですもの……。」と、やがて、自分の吃驚した言ひ譯して、「何處か加減が惡いの?」と、兄の目顏の普通でないのを氣遣つた。
「どうもしないさ。僕は散歩した次手に一寸寄つたのだよ。まだ夕餐は食べないけどお腹は空かないから何も御馳走しなくつて…