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夏向きの一夜
なつむきのいちや
作品ID55179
著者山之口 貘
文字遣い新字新仮名
底本 「山之口貘詩文集」 講談社文芸文庫、講談社
1999(平成11)年5月10日
初出「東京労働新聞」1950(昭和25)年8月10日
入力者kompass
校正者門田裕志
公開 / 更新2014-02-05 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 争えないもので、顔までがいつのまにやらそういう顔つきになってしまったのであろう。夜は云うまでもないが、昼間でも、街を歩いていると、ぼくはよくおまわりさんから誰何されたのである。それはしかし、顔つきばかりのことではなく風体からしてそもそもぼく自身の生活を反映しているものなのであって、当時の流行語を借りて云えば、所謂、るんぺんと称されているところのもので、ぼくは路傍で暮らしているような状態にあったからなのである。そんなわけで、ぼくの顔つきや風体は、いかにも、誰何されるにふさわしくなっていたみたいであるが、誰何されることによって、別に、ひどい目に合わされたこともなければ、豚箱を経験したわけなのでもなかった。ところが、いつ、どんな勘違いをされて、どんなひどい目に合わされないとも限らないような、そうおもう一抹の不安がぼくにはあったのである。そんな気持を、ある日のこと、佐藤春夫氏に話すと、
「それならばぼくが証明書を書いてあげよう。」
ということになって、氏は、一枚の名刺にペンを動かしたが、やがて、その名刺をぼくに寄越して云った。
「もしも万一の場合は身柄を引受にぼくが出頭するよ。そしてむかしは人殺しをしたことがあったかも知れないが、自分と知ってからはそんなことはないからと云って引受けてやるよ。」
 名刺には、その表に、詩人山之口貘ヲ証明スとあって、昭和四年十二月十二日としてあった。裏には、山之口君は性温良。目下窮乏ナルモ善良ナル市民也。とあった。
 ぼくは、この名刺のおかげで、安心して、街にうろついていることが出来た。ぼくのことを、誰何したことのあるおまわりさんなら、おそらくみんな、その裏表を読んだことになるのである。
「佐藤春夫ってなんだね。」
 おまわりさんのなかには、時に、そういうのもいないわけではなかったが、
「有名な詩人で小説家がいるでしょうあの人ですよ。」と云うと、知らないことでも恥だけはかきたくなくなってしまうのか、
「あ、そうかそうかあの佐藤春夫か。」
ということになったりするのである。
 ぼくの友人にもおまわりさんがいた。しかし、彼は詩人巡査と云われているくらいなので、佐藤春夫ってなんだねとは云わなかった。それどころか、ぼくの持っている佐藤春夫氏の証明書を見て感激してしまったのである。そして、ぼくが、辞退しているのにもかかわらず、ポケットから一枚の名刺を出して、佐藤春夫氏の証明書を真似てそれをぼくに呉れるのであった。むろん、その名刺には警視庁巡査と肩書があった。しかし、折角のところ、この証明書は、まもなく使用に耐えなくなったのだ。と云うのは、誰何の折のおまわりさんに詩人巡査の書いた証明書を見せると、かれらは、かえって反撥的になって来て、誰何が執拗になり意地わるくさえなるような傾向を示すのであった。かれらはまるで、その職業意識を刺激されて、いかにも余…

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