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見て過ぎた女
みてすぎたおんな
作品ID55194
著者正宗 白鳥
文字遣い旧字旧仮名
底本 「正宗白鳥全集第十二卷」 福武書店
1985(昭和60)年7月30日
初出「婦人倶楽部 第七巻第二号」講談社、1926(大正15)年2月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者山村信一郎
公開 / 更新2013-08-21 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「戀とは綺麗なことを考へて汚いことを實行するものだ。」と、西洋の誰れかが云つたやうだが、若し誰れも云はなかつたとしたら、おれがさう云はうと、日比野は思つてゐた。
 彼れは早熟であつたので、八九歳の頃から男女關係についてひそかに空想を描きだしてゐた。十一二歳の時分に「梅暦」を讀んだくらゐだつたから、小説の亂讀によつて色戀の情緒は早くから、發育さされた。しかし、一方で家庭の教訓や基督教の感化などによつて、それを非常の惡事として壓迫してゐた。二十四五の頃になつて壓迫から解放されて、所謂青春の生甲斐のある樂みを味ふやうになつたのであつたが、小説を讀み繪畫を見、あるひは音樂を聽いて、空想してゐたやうな美しい、情緒の濃やかな戀は、彼れが現實に感得するところとはならなかつた。ある女の唇に觸れる時、彼れはその女ではない、ある空想裡の女を心に描いてゐるのであつた。
 それは肉體の缺陷に依るのか、あるひは、彼れが女縁が薄くつて、おのれと身心の相投合した女にめぐり合なかつたのに依るのであらうか。青春の頃そのために焦燥を感じた。「美しい事を空想しながら汚いことを實行する」といふ不快な感じが、彼れの色戀には絶えず附き纏つてゐた。
 彼れも、下宿屋の小綺麗な女がいつの間にかゐなくなつた時には哀愁を覺えた。友人の妹が結婚した時にも、ちよつと感傷的な氣持になつた。彼に多少の因縁を續けてゐた女が巣を變へた時に、苦勞して搜し出して訪ねて行つたこともあつたが、この女ならではと思つたことは一度もなかつた。だから、彼れは色戀に沒頭してゐるらしい時にも孤獨の感じから脱することは出來なかつた。
 それで、歳を取つてからの彼れの思ひ出は淋しいのである。
 先日、雨上りの空の冴えた日に、彼れは、この頃住んでゐる大磯の町はづれを散歩した。天王山の麓から高麗山の麓へかけて、紅く黄ろく色づいた木々の美しさに目を惹かれて、家に爲殘してゐる用事をも忘れて時を過してゐたが、菊など植ゑてある或る小さな別莊の庭先に、二人の子供を從へて立つてゐる、可成り老けた顏した婦人がふと目についた。何だか見覺えのある顏なので、彼れは何氣ない風して側を通りながら顧みたが、すると、その女は、「アツ。」と云つたやうな聲を出して、彼れを見入つた。二人は同時に相手が誰れであるかを思ひ出したのであつた。
「日比野さんでしたか。お珍しい。この頃此方にいらつしやいますの?」女は日比野に近づいて云つた。
「えゝ。此處はあなたのお家の別莊なんですか。」
「さうでも御座いませんですけど……あなたは東片町にいらしつた時分と、そんなにお變りにならないぢや御座いませんか。」
「さうでもありませんよ。」日此野はさう云つて目禮して行き過ぎた。殆んど二十年を隔てて偶然行き遇つた昔の知人なのだから、ゆつくり話したらいろ/\な面白い經歴が彼女の口から聞かれたかも知れなかつた…

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