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落日の荘厳に似る
らくじつのそうごんににる
作品ID55274
副題――大観画伯の終焉
たいかんがはくのしゅうえん
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「吉川英治全集・47 草思堂随筆」 講談社
1970(昭和45)年6月20日
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2013-07-01 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 大観さん、と生前どおりに呼ばせていただく。
 ふりかえるとその人の画業と姿は、大観えがく群峰中の一高峰そのままな存在だった。偉大だったの一語でつきる。
 大観さんと親しくお目にかかったのは、あれはもういつ頃だったかもよく思い出せない。たしかぼくは「親鸞」を地方五紙に連載中でその挿絵を担当していた美術院同人の山村耕花氏などと池ノ端の一亭で一しょになったのが初めてではなかったかしら。まだあの特色のあるもじゃもじゃな頭髪も若々しく、もちろん酔語放談の調子は老画学生そのものだったし、初対面からおたがいにずいぶん言いたいざんまいを言いあって夜を更かした記憶がある。
 そのとき聞いたのか、後の話だったか。『わたしゃあねえ、中学生頃から床屋さんには行ってないんだ』と、あの長髪をなでながら話された。『学生頃ね、上野山下のある床屋へ行ったんですよ。紺ガスリの田舎ッぽうと見てか、ひどくいけぞんざいにこの頭をバリカンであしらわれましてね、ぶじょくを感じたんでしょ、よし、一生理髪屋にはゆかないぞ、ときめてね』と、それを生涯通したらしい。こういう一徹一念は大観画譜の初期から晩節までをぴいんと曲折なくつらぬいているものである。
 稀れには私の作品などを読むらしく、ご自身の方がずんと高齢なのに、私の不健康などを人づてに聞き知ると、よく自身愛用の秘薬というのをとどけてくれたり医師治療師などを紹介してよこしたりした。また宮本武蔵の読後感をあの筆不性な筆で長々とかいてきたのを、某百貨店で、武蔵展をやったときに展観に貸して、それが一夜で紛失した事件などもあった。そんなときも関係者が詫びに行くとらいらくそのもので、謝罪に行った人々が酔っぱらって帰って来たなどの報告をうけたりした。しごく人情もろい人であった。そのくせ古武士さながらのあの風貌と気節は、明治初年生れの年輪どおりもっともよい意味での明治人の象徴であった気がする。
 いちどは、築地の新喜楽で一しょになり、その頃そろそろ、酒と湯とを半々にして飲んでおられたが、その席へ私の家から電話があって、長女の安産を知らせてきた。すると大観さんが、この場へ吉報があったのは御縁だから、その赤さんの名はわたしが付けるといい出された。しかし酒興の事だしとこちらさえ忘れていると、お七夜の朝、水ひきを掛けた一紙の絵がとどけられた。それに画題を曙美として、おやくそくおめでとうと、かいてあった。その曙美はすでに女子大高校生で西生田の寮にいる。大観さんの訃を知ったら、きっとあの子は泣くだろうと思う。その後も会うごとに『おいくつ』『ご丈夫』と、この名付け親はお忘れなくよくきいて下すったものだった。
 それなのにこちらは常々気にはかけていても、ぶさたしていた。いま思うと、さきおととしの昭和三十年の四月、松屋でひらかれた「横山大観米寿記念名作展」でお会いしたのがさいごになった…

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