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私の見た大学
わたしのみただいがく |
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作品ID | 55284 |
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著者 | 戸坂 潤 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「戸坂潤全集 別巻」 勁草書房 1979(昭和54)年11月20日 |
初出 | 「三田新聞 第三七〇号」1937(昭和12)年5月 |
入力者 | 矢野正人 |
校正者 | Juki |
公開 / 更新 | 2012-08-10 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 4 ページ(500字/頁で計算) |
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私小説というものがあって、その評判は好悪相半ばしているようだが、それは私という自分であるものにしか判らない小説、自分だけが面白がるための小説、を意味する心算ではないらしい。それで私論というのも、自分にしか通用しない論文という意味ではあるまい。もっとも私語というものもあって之は自分だけに聞えるもので、他人に聞えては悪いものであるが、印刷にする私論が、他人の眼に触れて悪いという筈はないから、そういう意味では恐らくあるまい。さてそこで大学私論とは、私大学論とでもいうことであろう。つまり私という独特な条件を有った人間が、大学に対してどんな気持を有っているかを、論じようというのだ。
私は学生や教師として官私にわたって約四つ程の大学に関係した。併し学生としても優良でなかったし教師としても勢力ある位置にはなかったから、結局責任ある大学関係者であったとは言えない。講演や大学出版物への執筆、学生との学外における接触が、残りの私の対大学関係である。私の大学についての知識は之につきている。私が大学に対して持つ尊敬も軽蔑もこの材料の外へは出ない。
然るに私は往々アカデミシャンを以て目されているのではないかと考える。アカデミシャンとは他ならぬ大学味に富んだ人間のことである。今では大学に対して経済的な利害をほとんど全く有たぬ私であり、仕事の上でもあまり大学の影響を蒙っていないと思う私であるが、夫がなおアカデミシャンの性質を失わないとすると、大学の力は実に大きいと言わねばならぬ。
勿論私はジャーナリストを職業としている。H・G・ウェルズは自らジャーナリストを以て誇りとしているが、そういう意味でもさし当りはよいし、レーニンが党員名簿にジャーナリストと書き込んだというから、そういう意味ならなお更光栄である。ところがこのジャーナリストがアカデミシャン風なものだというのはどういうことだろうか。私の風采が最も貧弱な大学教授に類似しているからでは、よもやあるまい。恐らく私の書くものにどこかそういう特色があるからだろう。なる程私は例えば労働者風には物を書かない、又文壇の文士のような書き方でも物を書かない。それは慥かに、良いにつけ悪いにつけ、大学のお蔭である。
私は物を書くのに、物を考えずに書けない。と言うのは出来合いの言葉で話しを進めて行くことはどうも不得手である。之が話しをややこしくする原因だろう。私の考え方にはいつも微量のフィロロギー(文献学)とカテゴリー論とがある。だから知性と言わずに知能とか理性とか言いたくなるのだし、「ファッショかマルクスか」などとは言う気にならずに「ファッシズムかコンミュニズムか」といい直さなければ落ちつかないのだ。ここがアカデミックな点なのだろう。アカデミズムとジャーナリズムという対語も、この見方で行くと気に入らない。アカデミー(大学の如き)とジャーナリズム(報…