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友情に関係あるエッセイ
ゆうじょうにかんけいあるエッセイ |
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作品ID | 55286 |
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著者 | 戸坂 潤 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「戸坂潤全集 別巻」 勁草書房 1979(昭和54)年11月20日 |
初出 | 「改造」1941(昭和16)年2月号 |
入力者 | 矢野正人 |
校正者 | Juki |
公開 / 更新 | 2012-08-31 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 17 ページ(500字/頁で計算) |
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二年間あまり、世間から隔離されている間に、世間は全く変って了った。久し振りに会う友人達は、どうだ世の中は変ったろう、と得意そうに私をながめる。私は、いや思ったほど変ってはいない、と答えることにしているが、私の狼狽と敗北の色はさすがに隠す由もないと見えて、友人達はあまり私の言葉を信用しない様子だ。
尤も友人達の云うのは、私の思惑にも拘らず、案外無邪気な内容のものかも知れない。例えば菓子屋の前を通ってもガラス棚がまる空きであったり、米屋が米を家まで配達して呉れなくなったり、丸善が古本屋のようになっていたり、それからバットが大阪の粟オコシ然となったり、商人や交通機関の労務者が著しく権威ある者の如く語ったり、お客は一列に行儀よく並んで車を待っていたり、タクシーに乗りたくても都合がつかなかったり、その他その他数限りない新現象を、どうだ驚いたろう、と私に見せびらかす程度に過ぎないのかも知れない。私は田舎者が都会の親戚を訪ねた時のように待遇される、という程度かも知れない。
併しその程度の変化のことなら、私は別に驚きはしないのだ。私の知っていた旧社会から見れば変ったことは大いに変ったのではあるが、元来物を変らないように決めてかかっているのが認識の欠乏で、ものは変るのが当然であり、ことに社会というものが渓谷から平野へ出る川の水のように瀬になったり潭になったりして流れて行く生き物だというのは、現代人の常識であった筈だから、この頃急に変ったからと云って驚ろく方が間が抜けているのである。私が思ったほど変ってはいないというのも、その位いの変化には驚かないという意味で、あながち私の敗け惜しみでないと云って云えなくはない。
それに、変ったろう、と得意そうに云う友人達も、その裏では案外得意でないように見受けられる場合が少くないのだ。こんなに都合悪い方へ変ったんだからね、と云うような心持ちで、丁度病人が健康な見舞客に対して自分の病気を誇示する場合のような得意にしか過ぎない場合も多いのだ。そういう不健康な得意さはつまりは少しも得意でないことに外ならないが、そうなると主客に顛倒して、私の方が勝利者の側に立つことになる。私はこんな種類の変化をそんなに困った変化などとは考えていない。
菓子屋に菓子がなければそれだけ私の経済の節約になるし、米が買いにくくなったので、「日本人は何と云っても三度三度米を喰わなければ」と云っていた封建時代育ちの老人達もその頑冥不霊を取り下げなくてはならなくなるし、特に乗車や出札口での一列制度は交通道徳上大変喜ばしい向上だし、其他其他なのである。こんな変化は、あたり前であるばかりか、そんなに困った変化でも何でもないので、驚かないと称する私の方が正しいようである。――処でこの間も知人の或る小商人が訪ねて来て、世の中は大分、かわって来ましたが、我々は今後どんなになるのか…