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![]() めたんこでん |
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作品ID | 55305 |
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著者 | 室生 犀星 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「室生犀星全集 第十卷」 新潮社 1964(昭和39)年5月25日 |
初出 | 「文學界 第9巻第10号」文藝春秋、1955(昭和30)年10月号 |
入力者 | 磯貝まこと |
校正者 | きりんの手紙 |
公開 / 更新 | 2021-03-26 / 2021-02-28 |
長さの目安 | 約 28 ページ(500字/頁で計算) |
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めたん子はしぜん町の片側に寄り切られ、皮紐とか棒切れとかで、肩先や手で小突かれ、惡い日は馬ふんを蹶とばして、ぶつかけられてゐた。めたん子は抵抗する氣が全然失せてゐて、對手をちよつと見返るだけで、その眼には何時も怒りは封じられてゐて、怒ることが出來ないのだ。皮膚は熟柿色で眼はやぶ睨みをしてゐるのが、友達仲間から厭がられ、憎まずにゐられないのである。これは人間に與へられてゐる皮膚の色ではない。
めたん子はだから朝の登校時間も早目に出るのだが、性來のぐづのろで歩くのに手間がかかり、途中で友達仲間によく打つかつてゐた、一たん仲間につかまると早足で逃げることなぞ、氣合をうけて出來なくなり、一層遲足になつて仲間から充分に調戲はれいぢめられるのである。めたん子もそんないぢめられる厭な時間を、自分から待ち設けてゐるやうなのろくささで、肩を小突かれ背中から押し倒されようとしても、却つてお愛想笑ひをするくらゐである。一度でも、朝の内にいぢめられてゐた方がその日一日あんらくなやうな氣がし、泥でも藁繩でも打つかけられるままにされてゐる。めたん子はそれが當然自分の受ける折檻であつて、受けない日が友達仲間の手拔かりであり、馬鹿忘れしてゐるやうに思はれた。だからめたん子は町の片側を歩いてゆき、溝板があればその溝板づたひに行くのである。それだけでも、仲間を恐れることを仲間に知らせたい、媚であつた。
めたん子の家は魚屋であるが、父親も母親も、いくぢがないから友達から虐められるのだと言つて、構ひつけない、上り口に居れば邪魔だといつて追つ拂はれるし、店に出てゐると、おめえが出てゐるとさかながあがつてしまふと言つて、表で遊べと父親は呶鳴つた。めたん子はしぜん公衆電話のハコのある、神社の石柵の裏側から、第二京濱國道のくるまの列を見てゐるより、見るものがなかつた。遊ぶ仲間は一人もゐないし、おとなでもめたん子の火傷したやうな顏色を見ただけで、再度と言葉をかけてくれないのである。めたん子は柔しい顏をして話してくれる人間をまるで知らない、また知らうとも思はない、にくまれ續けることがめたん子にとつて、致し方なく受けとるものに、馴れ切つてしまつてゐるのである。めたん子の兄は家業の手傳ひをしてゐるが、この兄もまためたん子の顏さへ見れば、呶鳴りちらすか、突き飛ばすかして對手にしない、そんな仕打ちにも、おやぢは兄をたしなめるといふ事はなく、見て見ぬふうをしてゐる。兄のたけしはそれほど仕入れには熱心であつて、大物よりも、雜魚の刻み値が刻んだ利益のあることを知つてゐて、おやぢの代りに仕入れに行くくらゐであるから、氣に入つてゐるのである。おやぢはあいつさへ居なければ、くよくよ腐る氣も起きないんだがといひ、母親も精根も盡き果てたやうにあの子さへ居なければ、くらうのたねが無いんだがと呟く、めたん子はそんな毎日を一たい自分…