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復讐
ふくしゅう
作品ID55306
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「徳田秋聲全集 第14巻」 八木書店
2000(平成12)年7月18日
初出「中央公論 第三十六年第五号」1921(大正10)年5月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2022-11-18 / 2022-10-26
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 たえ子はその晩も女中のお春と二人きりの淋しい食卓に向つて、腹立しさと侮辱と悲哀とに充された弱い心を強ひて平気らしく装ひながら箸を執つてゐたが、続いて来る苛々しい長い一夜を考へると、堪えられない苦痛を感じた。
 たえ子がこゝへ嫁いでから、彼是一年近くになつてゐた。勿論それは偶然の――と謂つても、今の世のなかで善良な普通の家庭に於ける結婚を取決める場合に、尽されるだけの順序は踏まれたので、東京にゐる叔母夫婦も出来るだけの注意を払ふのに手ぬかりは無かつた。田舎の彼の家柄とか、出身の学校とか、現在の収入とか、性質とか品行とか、それらのものは型どほりに調べられもしたし、見合ひもしたのであつた。そして其の上でまあ其処いらが落著どころと決つたわけであつた。
 彼女自身もそれに不足のある筈もなかつた。幸福な運命の一つを首尾よく自分に引当てたらしく思はれて、内心ほつとしたほどであつた。無論二三年前、学校出たての時分にたゞ漠然と頭脳に描いてゐた夢のやうな空想などは、二三のそんな話を受取るたんびに影が薄くなつて、それに無上の寂しさを感じながらも、恵まれた現在の運命に不服はなかつた。けれど品行方正らしく見えた良人が、会社で一日働いて帰つて来ても、晩酌のときなぞに、そんな事にはまるで馴れない彼女に、何かしら飽足りなさを感じてゐることが、程なくたえ子にも判つて来た。最近たえ子は自分で拵へたものを、良人に食べてもらへるやうなことは滅多になかつた。そのうへ夜明頃になつて、絶望と疲労のために漸とうと/\と眠に陥ちることも珍らしくなかつた。
 そんな事が長く続かうとは思はれなかつた。結婚前からの惰勢か、悪友の誘惑か、でなければ酒のうへの気紛れに過ぎないのだと思はれたが、心配をする段になれば際限がなかつた。その上結婚当時の甘い言葉や優しい態度など思合せると、彼の愛も卑劣な欺瞞と賤しい情慾との塊にすぎないのだと思はれた。何も知らない清純な女を係締に[#「係締に」はママ]かけておいて、苦しむのを見て興がつてゐるのだとしか思はれない、彼の享楽気分にさへ触れたやうな不快と屈辱を感じた。
「男はみんなかうした狡さをもつてゐるものだらうか。」
 考へると際限はなかつた。たえ子は今まで可恥しくて、誰にも洩らさなかつた自分の苦痛を、思断つて友達に話してみようと思つた。
「私今夜はちよつと用達しに出ますから、お留守をしてゐてちやうだいね。」
 たえ子はお春に吩咐けて着替をすると、そのまゝふらりと家を出た。たとひ良人が今夜は帰るにしても、顔を合せるのも忌々しいやうな気がしてゐた。

 暫く外へ出ない間に、世間がめつきり春めいて来たやうに思へた。ひつそりした宵の町の静かさや、潤ひをもつた星の瞬きや、空に透けてみえる桜の枝などを見ても、淡い春の悦ばしさが感ぜられるのであつた。その辺は一体に勤人の住宅が多かつたので、何…

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