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一九三七年を送る日本
せんきゅうひゃくさんじゅうしちねんをおくるにほん
作品ID55354
著者戸坂 潤
文字遣い新字新仮名
底本 「戸坂潤全集 第五巻」 勁草書房
1967(昭和42)年2月15日
初出「改造」改造社、1937(昭和12)年12月号
入力者矢野正人
校正者Juki
公開 / 更新2012-10-30 / 2014-09-16
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 個人に公的生活と私生活とがあるように、社会全体にも云わば公的生活と私的生活との区別がある。別に社会の裏面があるということではない、社会の内心の生活があるという意味だ。どっちの生活も現実の生活であって、どっちだけを採りどっちを捨てるというわけには行かない。社会の公私生活がお互いに割合背反していない場合には、一方を以て他方を代表させることが出来る。即ち公的生活を以て私的生活を代表させることが出来るのである。事実又、私的なものを(公式に)代表するからこそ、公的生活は初めて公的生活なのだ。社会の公式表現と実質的な潜在情勢とが一致する社会は、幸福である。
 だが大抵の場合、社会周知の潜在情勢は必ずしもそのまま公式な表現となっては現われない。現われないばかりでなく、寧ろ潜在情勢とワザワザ反対な表現が公式な社会特色として通用することが多い。尤もだからと云って、社会的公式表現が必ずしも潜在情勢を悉く詐って、デマゴギー一点張りの外出着をつけるということには限らぬ。潜在事情の如何に拘らず公式表現は公式表現で、それ自身の特有な真実を持っている。例えば世論にしてもそうだ。政府や自治体の声明とか発表とかは、勿論社会の公式な自己表現である。その社会がそういう声明や発表を公式にやらねばならぬということが、取りも直さずその社会の重大な実質の一つであり特色の一つに他ならない。だからそれが必ずしも嘘とは限らない。儀礼というものは抑々そういう性質の真実性を有っている。こういうものも世論でないとは云えない。だが又、公式には到底発現出来ないような併し周知の潜在的見解が、であるから真実でないなどと云うことは出来ない。公的には世間の表面には現われないような一種の「世論」というものも、大いにあるのである。公式には現われないから、私語となり囁きとなり又は「奴隷の言葉」となってしか現われないのを普通とする。もしくは形のない或る一種の世の中の空気として実感される。流言や飛語の母体は正にここにある。
 日本の国民代表が日本の世論を代表して、アメリカやイギリスへ日本の所信を説得に出かけるとする。宣伝は大いに結構である。処でこの代表者達は日本の社会のどういう種類の「世論」を代表するのだろうか、とすぐそういうことが私には疑問になる。日本政府の対外的声明や発表は勿論公式言論であるが、それでも不足だというので出かける民間代表は、では日本国民の潜在的世論をでも説くわけだろうか。併し日本の潜在的世論とは今日何であろう。又そういう民心を知ることが、所謂国民代表に可能なことだろうか。仮にそれを知っているにしても、国家国民の代表者としては、そうあけすけには正直に云えないわけで、結局公式代表の種類を脱することが出来ないではないか。先日或る私立大学の教授がアメリカのインテリに日本の世論を説くべく出かけるについて、向うへ行ってからこうい…

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