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質物
しちもつ
作品ID55363
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「徳田秋聲全集 第15巻」 八木書店
1999(平成11)年3月18日
初出「文芸春秋 第四年第五号」1926(大正15)年5月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2021-11-18 / 2021-10-27
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 或る日捨三は或るところから届いた原稿料を懐ろにして、栄子の宿を訪問した。訪問といつても、彼に取つてはその宿の帳場の前を通つて行くことが、ちよつと極りのわるいことであつたゞけで、此の頃さう改まつた心持ではなくなつた。勿論最近まで、彼は栄子を訪問したことは、絶体になかつた。若し栄子を訪問するに適当な年輩であつたら、彼も或ひはこの三年間のあひだに、一度や二度くらゐは彼女を訪問したかもしれなかつた。しかし長いあひだ割合に頻繁に彼女の訪問を受けてゐる捨三が、その時々に奇しく変つて行く運命と共に、兎角揺られがちな彼女の弱い心から出る訴へを、可なり利己的な立場から、同情ある慰めの言葉で受けてゐたに過ぎなかつたくらゐなので、彼女を訪問しやうと思つたことは、嘗てなかつたと言つてもいゝのであつた。それは一つは捨三が妻に対して秘密をもてない性分であつたと同時に、少しでも他の女に心が動くやうに思はれるのが、迚も気恥かしいことでもあつたからであつた。それでも一度栄子の宿へ行く約束をしたことがあつた。それはその頃書いてゐた新聞の小説のヒロインが活動の女優であつたところから、女優生活の雰囲気を知る必要から、H――女優を訪問して話を聞かうと思つたのであつたが、最近その女優に栄子が逢つて来て家を知つてゐるので、一緒に行かうと言ふ約束をしたのであつた。
 H――女優は、捨三も以前よく知つてゐた。作品をもつて来たこともあつたし、舞台姿を見たこともあつた。無精な捨三は作品を預かりながらも、何一つ彼女のために心を労したこともなくて、ふとした第三者――それも捨三の極親しい親類の青年が、捨三と一緒に招待されて見たH――女優の舞台振だけなら未だいゝが、顔の印象について侮辱的な批評を書いたところから、極りわるかつたのか、怒つたのか、それきり捨三の家へは来なくなつてしまつた。栄子は田舎における結婚生活が破滅に陥つた時、良人の勧めで映画界に入らうとした時、その社会でも頭脳のしつかりしてゐるH――子を訪ねて、撮影所の裏面や、女優の生活を聴かされ、親切な助言を与へられたことがあるので、H――子に感謝してゐた。勿論栄子は撮影所へ入ることを、悉皆諦らめてしまつた。そして其から間もなく彼女は今迄の家庭生活を失ふと同時に、実生活の真中へ投り出されてしまつた。
 捨三は独りではちよつと極りがわるいので、栄子と一緒にH――子を訪問しようかと思つて、その意味を洩すと栄子もそれを悦んで日まで約束したのであつたが、彼は矢張り気が差した。栄子の生活雰囲気が悉皆かはつて、若い人達によつて取捲かれてゐるやうにも思はれたし、新しい恋人でも出来てゐるかのやうに思はれたので、つい遠慮するやうになつてしまつた。それに其日は雪が降つたりした。
「××日に栄子と一緒にH――子を訪ねる約束をしたんだが……。」捨三は時々妻の前に洩してゐたが、妻の表情が…

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