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しきい
作品ID55366
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「徳田秋聲全集 第15巻」 八木書店
1999(平成11)年3月18日
初出「文芸日本 第一巻第三号」文芸日本社、1925(大正14)年6月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2022-12-23 / 2022-11-26
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 その日も土井は町へ牡蠣雑炊を食べに行つた。京都へ来てから、思ひのほか日がたつてゐたので、彼はもうそろ/\帰り支度をしてゐた。六兵衛だとか、ゑり正だとか、そんな老舗へも立寄つて、少しばかりの土産物を買ひ調へてゐた。甥が西陣の織物屋を知つてゐるので、反物も少し心がけたりしてゐた。十二月も早や押し詰つて、余すところ幾日もなかつた。
 彼は立寄つたついでに、もつと行つて見たいところが、まだ沢山あつた。食べに行きたいところも多かつた。しかし今度の旅は遊びが目的ではなかつた。たゞ大阪の兄が危篤だといふ電報に接して、見舞ひ或ひは永訣――その孰になるかは、東京を立つた時の彼には判らなかつた――のために大阪へ来たついでに、甥にさそはれて立寄つたのを機会に、しばらく逗留したまでであつた。若し遊覧のためなら、何もわざ/\特別に底冷えがすると言はれてゐる京都の冬を見舞ふ理由はなかつた。しかし京都の冬は思つたより好かつた。少くとも今迄二三度見舞つた暖かい季節の京都よりも、冬の京都に京都らしい特色があつた。実際京都の冬は冬らしい静かな冬であつた。それが土井には懐かしかつた。それは彼の足を止めたところが郊外にあつたからで、そこは平野神社から銀閣寺へ行く途中に見える衣笠山の夷かな姿が直ぐ簷の下から望まれるやうな場所にある、貧しい家であつた。
 土井は最初そこへ着いた晩、筆を執るやうな落着きがないのに、ちよつと失望したが、家主の住つてゐる家の離れを一室借りておいたからと、甥が言ふので、彼はそれを信じて、暫く滞在してゐた大阪の人達と、強ひて袂を分つて、お寺から直ぐに梅田へ向つたのであつた。土井は京都へついてからも、何か自分で怒つてゐるのぢやないかと反省してみたくらゐ、執拗に京都行を主張したのであつた。勿論彼は密送前から本葬にかゝるまで十日の余も、嫂の弟に当る人の家の二階の離れに閉籠つてゐて叮重にされゝばされるほど気が痛んだ。一つは兄の臨終に間に合はなかつたことが、通知に手落でもあつたやうに、彼が考へてゐるのだと思はれてゐるらしかつた。勿論彼は兄の生前に行きあはさなかつた事を残念に思つた。少年のをり、土井は誰よりもその兄に愛されてゐた。頑で我儘で、そして時としてはひどい怠けものであつた異腹の末弟の彼を、兄は何んな場合にも自分の子供のやうに愛した。殊に大阪に放浪してゐた時の土井は、一年ばかりも兄の宿に転がつて、何一つ為出来すこともしないで、収入の多くもない兄の脛を噛つてゐた。彼とても全然無駄な月日を送つてゐた訳でもなかつた。何かに有りつかうと思つて、努力もした。時には作品を或る新聞に掲げたりした。雑誌に悪戯書きをして、いくらか前途を祝福されたこともあつた。筆耕をしたり、役所へ出たりした事もあつた。しかし畢竟徒労であつた。彼は作家としては出直すより外なかつた。世間人としては、余りに子供じみて、筆が…

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