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倒れた花瓶
たおれたかびん
作品ID55367
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「徳田秋聲全集 第15巻」 八木書店
1999(平成11)年3月18日
初出「文芸春秋 第四年第一号」1926(大正15)年1月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2022-02-01 / 2022-01-28
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 ステーシヨン前の旅館から、新聞社の人達によつて案内されて来たその宿は、氷川の趣味性から言つて、ちよつと気持の好いものであつた。それは其の宿屋が、近代式旅館と言ふには少し古風であつたと同時に、かいなでの田舎の旅籠屋とちがつた、古い都会らしい趣味の頽廃気分があつたからで、彼は庭の植込みのあひだを潜つて、飛石づたひに、一棟離れた茶室に案内されたとき、漸と落着場所に有りついたやうな安易を感じた。その離房は、簡素な茶室と、それにつゞいた薄暗い六畳の二室から成立つてゐた。氷川は勿論お茶人でも風流人でもなかつたけれど、旅でさう云ふ部屋に寝起きすることが、暫らくでもちよつとさう云ふ佗しい気分にならせるのであつた。
 それがちやうど電燈のつく時分であつた。氷川は、これも飛石を渡つて行くやうにできてゐる風呂へ入つてから、その人達と外へ飯を食べに行つて、帰つて来たのはもう九時頃であつた。氷川は飯を食べたその家にも、何となし産れ故郷を訪れたやうな懐かしみを感じたのであつたが、それも燻しのかゝつた上方風の静かな家であつた。瀟洒な庭の木石のあひだに、幾つかの部屋が、飛び/\に置かれてあつた。
 その晩氷川は茶室つゞきの六畳で、静かな眠りに就くことができた。彼は疲れた頭の髄からすやされるやうな感じであつた。
 翌朝氷川は十時頃に目がさめた。そして湯殿で顔を洗つてから、庭を歩きながら、掃除のできるのを待つてゐた。
「さあ何うぞ。お掃除ができましてござります。」
 五十六七の小柄なお婆が、さう言つて声をかけた。氷川はやがて部屋へ入つて行つたが、夜は判らなかつたけれど、今朝になつてみると、部屋の暗いことに気がついた。床の間にある小鉢の石蕗の花が、ふと彼の目についた。
「ここは大変いゝですが、物を書くには少し暗いやうですね。」
「さやうでござりますか。お暗ければ日当たりの好い部屋が二階にござりますでな。」
 氷川は惣菜風の料理で、朝とも昼ともつかぬ飯をすましてから、小机のうへにインキや紙やペンを取並べて、淡い寂しい気持で煙草を喫かしてゐた。彼は茶室といふものを、初めてしみ/″\見た。彼は独りでゐるときの常習になつてゐる、怠惰な瞑想に耽けりがちな自分を見詰めながらいつまでもぼんやりしてゐた。彼はやゝ疲労を感じて来た。終ひに鬱陶しくなつて来た。彼は檻のやうな其の部屋にゐるのが、次第に怠窟になつて来た。
 するうちに直きに日が傾いて来た。部屋は一層憂欝になつて来た。一日彼は何にもしなかつた。
 翌日移された二階は東受けであつた。昨日までゐた茶室の扁額が直ぐ目の下に見えて、朝日が初冬の梢ごしに障子の腰硝子を透して、机のうへまでちら/\してゐた。北の方にも長い二階の一棟があつて、氷川の部屋から、その下座敷の可なり奥の方までが、植込の隙間から見透かされた。氷川は真鍮の手炙をかゝへながら、漸といくらか仕事に…

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