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彼女の周囲
かのじょのしゅうい
作品ID55368
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「徳田秋聲全集 第15巻」 八木書店
1999(平成11)年3月18日
初出「婦人の國 第一卷第三號」新潮社、1925(大正14)年7月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2022-02-01 / 2022-01-28
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 彼女の姉だといふ人が、或る日突然竹村を訪ねて来た。
 竹村には思ひがけない事であつたが、しかし彼女に若し姉とか兄とかいふ近親の人があるなら、その誰かゞ彼を訪ねてくるのに不思議はない筈であつた。それほど「彼女」は不幸な位置に立たせられてゐた。
 彼女といふのは、竹村の若い友人大久保の細君奈美子のことであつた。或ひは世間で言ふ内縁の妻と言つた方[#ルビの「はう」は底本では「ほう」]が適当かも知れなかつたが、大久保の話すところによると、奈美子は彼の作品の愛読者の一人で、また彼の憧憬する若い女性の一人であつたところから、手紙の往復によつて、さうした恋愛が成立したらしいのであつた。竹村はその事について、その当時別に批評がましい意見をもたうとは思はなかつたけれど、ずつと後になつて振返つてみると、彼女は彼の作品と実際の手紙によつて、不運にも彼に誘惑された気の毒な女だとも思へるのであつたが、しかし恋愛の成立については、彼も詳しい事は知らなかつた。
 但し同棲後の彼女は、決して幸福ではなかつた。恐らく彼女もさう云ふ運命を掴まうと思つて、彼のところへ来たのではなかつたであらう。彼の作品と彼の盛名と彼の手紙、乃至は写真のやうなものから想像された年少作家大久保が、何んなに美しい幻影と憧憬心の多い彼女の情熱を唆つたかは、竹村にも大凡そ想像ができるのであつた。勿論大久保にも詩人らしい空想があつた。若い女性に対して、純な感情ももつてゐたから、誘惑と言ふのは当らないかも知れなかつたけれど、色々の条件と、同棲生活の結果から見ると、彼の本能が、一人のその若い女性にさういふ風に働らきかけて行つたのは事実であつた。
 一番「彼女」を不幸[#ルビの「ふかう」は底本では「ふこう」]にしたことは、彼の性格が普通社会人として適当[#ルビの「てきたう」は底本では「てきとう」]な平衡を保つてゐないことであつた。無論こんな仕事へ入つてくる人のなかには、性格の平衡と調和の取れない人も偶にはあつた。世間から見ては、病的な頭脳や狂人じみた気質の人もないことはなかつた。竹村自身にしたところで、この点では、余り自信のもてる方ではなかつた。勿論彼の仲間だけが特にさうだとは言へなかつた。見渡したところ、人間は皆な一つ/\の不完全な砕片であるのに、不思議はない筈であつた。
 しかし大久保の場合は、その欠陥が少し目に立ちすぎた。彼は或る意味では誇大妄想狂であつたが、或る意味ではまた病的天才とでも言ふべき種類のものであつた。病理学者や心理学者でない竹村には、組織立つてそれを説明することは困難であつたが、とにかく奈美子に対してふるまうた彼の色々の行為だけでは、彼もまた一種の変態性慾者だと思はれた。
 竹村が初めて奈美子を見たのは、ちやうど三月ほど前の秋の頃であつた。彼はしばらく奈美子と同棲してゐた郷里の世帯をたゝんで、外国へわたる…

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