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ある夜
あるよる
作品ID55372
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「徳田秋聲全集 第16巻」 八木書店
1999(平成11)年5月18日
初出「文芸春秋 第五巻第五号」1927(昭和2)年5月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者久世名取
公開 / 更新2018-11-18 / 2018-10-24
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 彼は此頃だらけ切つた恋愛に引摺られてゐることが、ひどく憂鬱になつて来た。その日も彼女は娘をあづけてある舞踊家のF――女史のところへ、二三日うちにあるお浚ひのことで行くと言つて家を出かけるとき、
「帰りに武蔵野館に好い写真がかゝつてゐるといふから、ちよつと見て来ようと思ふの。先生もお差閊なかつたら、入らつしやいませんこと?」と彼を誘つた。
 彼は以前は余り見なかつた活動を、彼女がゐるために時々見る機会があつたが、大抵は彼女が見て来て筋を話すくらゐの程度であつた。
「さうね、好いものなら。」
「何だか大変好いんですて。私メイ原田からF――さんのとこへまはつて武蔵野館へ行つて電話をおかけしますわ。いゝでせう。」
 彼は大して気も進まなかつたけれど、さう言はれると矢張り行かない訳に行かなかつた。「ぢや屹度ね」と彼女がさう言つてあわたゞしく彼の部屋を辞してそれから部屋を取つてある下宿へ寄つて仕度をしてから出て行つたのは、十二時少し前であつたが、彼はその後少しばかり仕事をして、客に接したり雑誌を読んだりしてゐると直ぐ日暮方になつてしまつた。そして活動の初まる時刻になつて来た。彼女はさう云つた種類の約束は余り違へない方であつたが、当てにならないことも偶にはあつた。約束が当てにならないといふよりも、予報なしに咄嗟に行動するやうな場合が屡々あつた。彼は電話をさう当にしてもゐなかつたが、六時半頃に彼女の下宿から、彼女の侍女がやつて来て、電話のかゝつて来たことを知らせた。
「奥さまが武蔵野館にゐらつしやいますから、旦那さまにお出で下さいまして。」
 彼は家を出ると、途中でボロ自動車を一台拾つて飛乗つたが、走り出すと両方の蔽ひの無いことに気がついた。三月の寒い夜風が強く頸や顔に当つた。
「幌がないんだな。」
「先刻西洋人を載せましたら、取つてくれと言ふものですから。」
 それでも速力は迅かつた。そして四谷見附から士官学校前へ差しかゝる道路では、彼の頭が二三度天井へぶつゝかるほど、ひよい/\飛びあがるのであつた。
 直きに活動館の前へ来た。
「断髪の、黒い絹糸の肩掛をした女が来てゐる筈ですが。」彼は入口の切符切にきいた。
「山下さんでございますか。」彼女はさう言つて預かつてゐる切符を渡した。
 案内されて二階へ上つて、段々を二三段昇ると、そこに彼女がゐた。彼は柱の蔭になつてゐる端の椅子に、彼女と並んでかけた。
「先生この方メイ原田さんよ。」彼女にさう言はれて、ひよいと其の隣を見ると、青い外套を着て茶の帽子を冠つた彼女が、少し腰を浮かして挨拶した。
「そこ見にくかつたら代りませうて。原田さんが。」
「いや。」
「見えないこともないわね。」
「いゝとも。」
 終りに近づく頃なので、写真の筋は薩張り判らなかつた。
「何だかちつとも解んない。喜劇だね。」
「まあさうですね。ちよつと面白いも…

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