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浪の音
なみのおと
作品ID55376
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「徳田秋聲全集 第16巻」 八木書店
1999(平成11)年5月18日
初出「文芸春秋 第七年第五号」1929(昭和4)年5月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者久世名取
公開 / 更新2019-11-18 / 2019-10-28
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 新庄はホテルの日本室の寝床のうへでふと目をさました。海岸は風が出て来たらしく、浪の音が高かつた。何かしら訳のわからない不安を感ずるやうな、気持で――勿論それは薄暮の蒼白い部屋の色が、寝起きの頭脳に、彼が盲腸の手術をやつたとき、病院の部屋で魔睡薬がさめかかつて、目をさました瞬間の蒼白い壁の色などの聯想から来たものだことはわかつてゐたが、大体彼は日暮方に眠りからさめると、いつもさうした佗しい気持になるのであつた。今も彼はそれと同じ寂しさのなかに眼覚まされたのであつた。
 ふと先刻ステーシヨンまで送つて行つたK子が、昨夜椅子に乗つて電球をくるんだ、紅い縁取の絹ハンケチが、燃えつくやうに目に映つた。暫らく彼の感覚は彼女の悪戯な目や、白い手や、晴やかな声に惹きつけられた。彼は佗しい浪の音を聞きながら、甘い幻想に浸つてゐた。
 寝床を離れて、K子がしたやうに椅子を廊下から取込んで来て、電球のハンケチをはづすと、彼はそれを顔に押当てたが、やがてからげた袂の底に押しこんだ。机の上にある体温器を取つて熱を計ると、K子をステイシヨンへ送つたときと略同じ八度近くであつた。K子が見舞にもつて来てくれた黄と赤との薔薇が五輪、コツプの縁に頸垂れてゐた。彼はその熱がどこから来るかゞ能くわからなかつた。肺尖加答児だといふ医者もあつたが、単に神経衰弱から来る発熱に過ぎないと楽観的に笑つてゐる医者もあつた。孰にしても彼はこの春朝寒の頃の感冒から、体の倦怠を感じてゐた。思ふやうに仕事が出来なかつたこの一年間、不断は何をしてゐるかわからない、K子と友情以上の関係が、絶えがちに、しかし時々思ひだしたやうに続いてゐた。映画女優になつたこともあるさうだが、スクリンの上では誰にも何等の記憶をも残さないで消えてしまつた。詩も作るけれど、一番物になつてゐるのは何と言つてもダンスであつた。ダンス場で二人は知つたのであつた。
 新庄は或る時若い坊ちやん/\した学生と、銀座を歩いてゐる彼女を見た。二タ月も二人は逢はなかつた。彼の方で約束をお流れにしてしまつたからであつた。
「何うしたの。」
 K子はにや/\したが、顔が赤くなつた。
「あの人何でもないんですわ。」
「紅茶でも呑まない? あの学生さんも来てもいゝ。」
「いゝえ、ちよつと断ればいゝんですもの。」
 二人はフルーツパラへ入つて、当らず触はらずに話してゐた。
 それから又かう云ふこともあつた。派手々々しく着飾つて、少し年取つた背広服の男と、やつぱり銀座を歩いてゐた。媚を送る彼女の目をちらと見たが、彼は見ぬふりをして通りすぎた。
「好いものを引つかけたんだ。」
 しかし其の次ぎに武蔵野館で見たときには、相手は又新しい男であつた。ストリトへ出てゐるんではないかと思つたが、彼と逢ふときは無邪気で純情であつた。新庄はちよつと沈んだ、睫毛の長いその目と、色の真白…

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