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水ぎわの家
みずぎわのいえ
作品ID55380
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「徳田秋聲全集第16巻」 八木書店
1999(平成11)年5月18日
初出「中央公論 第四十二年第三号」1927(昭和2)年3月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者久世名取
公開 / 更新2019-02-01 / 2019-01-29
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 その時彼はちようど二人の女と差向ひにすわつてゐた。一人はその家の主婦で、一人は一流の花柳界にゐる女であつた。
 そこは彼が時々息安めに行くところであつた。何の意味がある訳でもなかつた。生活の対象とか何とかいふ種類のものでは無論なかつた。緊張した愛の生活をするには、誰しもさう云ふものを欲するとほりに、彼も亦心易く友達と一緒に御飯の食べられるところが一つくらゐほしかつた。それには其処より外、知つたところがなかつた。余り好子のことで苦しくなつたとき、水辺のその家へ彼は出向いて行つた。その主婦の三十年の生活には、なまじつかな作家が筆をつけられないやうな人生と恋愛場面とが、まるで斧鉞を入れない森林のやうにあつたといふことも、彼としてはなか/\に看脱せないことであつた。
 その時も彼はその家の小座敷にゐた。彼は昨日仕事の道具をもつてホテルへ出かけた。そして今日こゝへ飯を食ひにやつて来て、暫らく話しこんでゐた。昨日はちやうど好子が宏太郎と一緒に浜へ行くことになつてゐた。宏太郎の友人の洋行を見送り旁々、船を見たいといふので、同伴する相談が、二三日前宏太郎と彼女のあひだに成立つてゐた。その友人は好子の作品を読んで「男まさりだ」などと讃美したとかで、好子も未見の若いその読者に感激を感じてゐた矢先き、さうした若い人達の雰囲気に触れるのも悪くなかつたし、見送りの光景を見ておかうと云ふ心持も手伝つて、聊か好意を示さうといふ彼女らしい思ひつきであつた。
「私船を見たことがないから、それを見い旁々宏太郎さんのお友達を見送りに、一緒に行かうと思ふんですけれど、貴方もいらつしやらない?」
「僕は行かない。」彼は断はつた。
 好子が宏太郎と一緒に行くことは、彼にも悪い気持ではなかつたが、何だか寂しかつた。
 彼には寂しがりの癖があつた。格別作家生活の対象にはならない妻ではあつたけれど、半日でも用足しに出てゐると、何か物足りない感じがした。下宿に出てゐるこの頃の好子は余り家へ顔をもつて来なかつた。偶々病院へ行く日は、お昼頃家を出ると帰りは大抵遅かつた。でなければ大抵下宿に寝てゐた。痔疾が全癒に近づいてから、時々熱が出たりして捗々しく行かないのにじれじれしてゐた。彼は静かに一人で暮したい日もあつたが、彼女がゐないと矢張り寂しかつた。無諭横浜行きの帰りは遅くなるに違ひないのであつた。彼は必ずしも隙間を覗つて其の家へ行く訳ではなかつた。好子の帰りを待つてゐるのが苦しかつた。好子が何をしてゐるかを想像するのが悩ましかつた。
 派手な服装をしてゐる主婦と並んで、ちやうど遊びに来てゐた主婦の友達の其の女がゐた。これは渋い茶の結城御召なぞ着るやうな女であつた。
「私なぞ待合の主婦には本当はこんなものが好いのね。処が私には何うしてもさういふものが似合はないのよ。」主婦はその女に言つた。「私は錦紗とかお召とかい…

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