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老苦
ろうく
作品ID55385
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「徳田秋聲全集第16巻」 八木書店
1999(平成11)年5月18日
初出「文芸春秋 第八巻第九号」1930(昭和5)年9月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者久世名取
公開 / 更新2018-12-23 / 2018-11-24
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「ではお父さんは三ちやんと一緒に寝台自動車に乗つて行つて下さい。僕は電車で行きますから。」
「あら、さう。」
「病院までは僕も一緒に乗つて行きますから。」
「よし/\。」
「T老院長は患者に愛著をもつてゐます。どうしても癒さうとしてゐます。あの海岸の療養所にこの夏一杯もゐたら、づつと快くなるでせう。費用もかけさせないやうにと、心配してくれてゐるんです。あゝ云ふ患者が、一家のうちに一人出ると、中産階級のちよつとした家は大概へたばつてしまふもんだからつて、そこまで思つてくれてゐるんです。」
「何しろ長いからね。」
 長男の正雄は若院長は勿論、老院長とも親しくなつてゐた。彼は誰とも親しくなれる質の柔軟かな心をもつてゐた。
 通りの自動車屋の前へ来ると、尨大なその寝台車が路傍樹の片蔭に用意されてあつた。彼は二十になる娘と田舎から偶然出て来てゐる甥と、それに女中と四人でそれに乗つた。
「僕はW薬局で買ひものをして、後から電車で行きますから。」
 寝台自動車は朝の爽やかな風にカアテンを煽らせながら、ゆつくり街路を走つた。病院までは大した距離でもなかつたが、彼はいつも別れる時が寂しいので、余り見舞はないことにしてゐたが、今二階の病室へ上つてみると、患者は相変らず白皙な綺麗な顔をしてゐた。節々の暢びやかに育つた彼は、兄弟中で尤も脊が高くて、尤も青年らしい気慨と元気とをもつてゐた。長いあひだ仰臥したまゝの彼は、誰でも捉へて談話や議論に耽つた。彼は何んでも知つてゐた、中学生にしては少し大人つぽすぎるほど各方面の知識に富んでゐた。
「それはね……。」と、明晰な口調で彼が遣りはじめると、夫から夫へと際限もない雄弁がつゞいた。
「若しこれが今頃健康であつたなら……。」
 彼はしかしそんな事は考へないことに決めてゐた。気慨のない二人の兄にきつと不満を抱いてゐるであらう彼が、怠窟な病床に長い病苦を忍んでゐることを思ふと、彼の運命が何んなに辛いものであるかゞ思ひやられた。勿論こんな病人はこの子一人ではなかつた。結核性の脊髄カリエースや骨膜炎を悩んでゐる少年少女、青年処女の多いことは、病院へ行つてみれば直ぐ解ることであつた。そして又適当な療養所の国家的設備のないことが、如何に多くの貧しい患者の父母兄弟達を泣かしてゐることだらう。彼は何うかすると顔を背向けて泣いてゐる三郎に気づいた。
「三ちやんは自殺しようとしたらしいの。」
 姉娘からそんなことを耳にしたこともあつた。
「あゝ、さう。カルモチンなんか枕元においちやいけないよ。」彼は娘に言つた。
 しかし家ではエトラガーゼの捲替へを、毎日一回づつ欠かさずにやつてゐた兄の正雄が、何と言つても一番患者に密接してゐた。正雄は何んな場合にも希望を失ふやうなことはなかつた。彼は屡[#挿絵]父を励ました。
「若し癒らないものだつたら、ガーゼの捲替へなぞ、張…

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