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芭蕉と歯朶
ばしょうとしだ |
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作品ID | 55390 |
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著者 | 徳田 秋声 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「徳田秋聲全集 第16巻」 八木書店 1999(平成11)年5月18日 |
初出 | 「中央公論 第四十三年第十号」1928(昭和3)年10月1日 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | きりんの手紙 |
公開 / 更新 | 2020-02-01 / 2020-01-24 |
長さの目安 | 約 18 ページ(500字/頁で計算) |
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深い雑木林のなかに建てられたバンガロー風の其の別荘へ著いたのは午後の何時頃であつたらうか。彼はこの高原地へ来る途中、初めてそこを通る同行の姉娘と妹娘に、ウスヰ隧道の出来た時のことなどを語つて聞かせた。それは四十年足らずのむかし、彼が初めて東京へ出た時の思出話であつた。同じ文学を志した友人のK君と徒歩でこゝを通つたとき、隧道の難工事に従事してゐる労働者達の荒くれた風貌や関東弁がいかにアムビシヤスな、田舎からぽつと出の二人の幼な青年を驚かしたかを思ひ浮べたりした。荒いウスヰの山や谷々には、木の芽が漸く吹かうとしてゐた。旅客を運ぶ馬車が、喇叭を鳴らして、遠い山裾の道を走つてゐた。
「長野からづつと此の辺を歩いて、高崎から又た汽車に乗つたのさ。」彼は語つたが、それからの長い過去の現実が総て自身にも嘘のやうな話であつた。
「御母さんも家が可けなくなつて、東京へ出るとき馬車で此処を通つたさうだ。」彼は附加へようとしたが、彼女のことは語らないことにしてゐた。
「もう十五通つたわよ。」汽車の長いのに倦んでゐた幼い蝶子が言つてゐた。
別荘には迎へに来てくれたH青年兄妹と祖母とが来てゐるだけであつた。主客六人は上り口の広い廊縁のところで青葉の影を浴びながら、暫らく話してゐた。彼は羽織をぬいで、梁や手摺などの伐倒した雑木で造られた無造作な、しかしがつしりした其の建築に興味を感じた。
「これは好いですね。」
「兄の設計なんですが、夏だけのもので、一年中風雨に曝らしておくんですから。」
「この土地には皆さんこれが大変好いと仰つて。」お祖母さんも言つてゐた。
十一になる蝶子は十四になる妹の京子さんと、前から悉皆友達になつてゐた。料理場から料理を持出す窓をもつた食堂でもあり応接室でもあり遊戯室でもある二十坪ばかりの広間には、これも素材のまゝの手摺をもつた段梯子があつた。その前の方に畳敷の日本室があり、後ろのドアを開けると、そこに厠があり、厠と勝手元の間の廊下を行くと、そこに明るい感じの風呂場があつた。
「こゝだけは父が後から改築したんですが。」
「さうね、こゝは一番手がかゝつてるやうだが、僕等が郊外に家を建てるとしたら、これが好いな。」彼はのう/\した気分で湯に浸りながら、直ぐその場合を想像した。
彼はいつからか郊外へ出よう/\と考へてゐた。近頃は殊にその思念が強かつた。長く染みこんで来た都会趣味や町住ひらしい家庭気分が彼には煩はしくなつてゐたが、その癖彼はまた二十年住みなれた家を離れかねて、家を造築して見たり、最近は又増築工事の時破壊された庭を造り直したりして、兎角居住に迷ひがちな自身の気持を強ひても落着けようとしてゐた。けれど遣つてつけの建築と、年々建てこんで来る周囲の気分とが、屡々彼を憂鬱にした。彼は竹を植えたり、友人のところから叡山苔をもらつて来て貼りつけたりした。こゝへ…