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彷徨へる
さまよえる |
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作品ID | 55397 |
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著者 | 徳田 秋声 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「徳田秋聲全集 第16巻」 八木書店 1999(平成11)年5月18日 |
初出 | 「新潮 第二十五年第二号」1928(昭和3)年2月1日 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | きりんの手紙 |
公開 / 更新 | 2020-12-23 / 2020-11-27 |
長さの目安 | 約 20 ページ(500字/頁で計算) |
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芸術論や人生論をやる場合にも劣らぬ否寧ろそれよりも[#挿絵]かに主観的に情熱の高まつて来るのは、彼が先輩G――の愛人I子の噂をする時の態度であつたが、その晩彼は彼自身の恋愛的事件について、仄かな暗示をG――に与へたのであつた。G――はI子とちよつと遠ざかつてゐるやうな場合に、I子に関して、共鳴を惜しまない、彼と語るのが一つの慰安であり救ひであつた。彼とはG――の最も愛してゐる武村青年であつた。彼は真摯で芸術的才能に恵まれてゐたが、往々コーヒ代や電車賃にも窮してゐた。それは彼が芸術的矜持とプロレタリア精神とを失つてゐなかつたからであつた。
その時も感激的にI子讃美論のはづんだあとで、卒然として武村は眉を昂げながら、彼にはちよつと珍らしい女性との接近について、謙遜した態度で語りだした。
「ぢや女給ぢやないんだね。」
「先生にまでお話してもいゝと思ひますが、I子さんには何うか秘密に。」
「大丈夫だよ。寿美子かね。」
「え、さうです。」
寿美子は或る若い洋画家の愛人で、彼女自身は提琴家であつたが、時々来てはI子の用事を達してくれてゐた。未だ親がかりであるうへに、さうした愛人をもつてゐることが、一層資産家の彼の父を頑なにしたので、この洋画家と音楽家との愛人同志の生活は幸福ではなかつた。で、I子が寿美子を物質的に助けてゐる訳であつた。
G――が寿美子を知つたのは、去年の夏頃I子が彼の家庭に入つて間もないことであつた。I子は以前の結婚生活時代から寿美子を知つてゐた。で、I子がG――の家庭にくることを知つて、寿美子が又た手寄つて来たのであつた。G――が彼女が其から後に恋愛関係に陥ちた其の洋画家K――を知つたのは、去年の暮、I子がG――の家の直ぐ近くに別に一ト世帯をもつてゐる頃のことであつた。I子は二人の子供をかゝへてゐたので、寿美子にも家に来てもらつた方が、双互の利益だと思つてゐた。
「ヴヰオリンをびい/\やられるのは困るけれど、練習は成るべく私が外出したときにすれば可いぢやないの。」
しかし愛人の青年が、ちやうど寿美子と同棲することになつてゐたので、二人の生活事情を訴へに、K――が寿美子につれられて、I子を訪問したのであつた。
「なか/\高いところのある青年よ。あの人は今に好い芸術家になりますわ。寿美子さんには過ぎてゐるかも知れないくらゐよ。」I子はその純真さを称讃してゐたが、その帰りがけに段梯子をおりてくる彼に、G――は立ちながら会釈を交はしたのであつた。その後彼と芸術談をする機会が二三度あつた。
それゆゑ今武村から、彼の恋愛(彼ははつきりさうとは言はなかつたにしても)の新しい相手が寿美子であると聞いたとき、G――はちよつと面喰つた。
「大分前から?」
「いゝえ、つい此の頃。」
「いつから?」
「そんな事は聞かないで下さい。まあ友情以上のものぢやないんですか…