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歯痛
しつう
作品ID55402
著者徳田 秋声
文字遣い新字旧仮名
底本 「徳田秋聲全集 第16巻」 八木書店
1999(平成11)年5月18日
初出「中央公論 第四十三年第一号(我国文化の最高標準号)」1928(昭和3)年1月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2020-11-18 / 2020-10-28
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 M―市を通つてA―温泉へ着いたのは、もう夜であつた。
 今年は殊に万遍なく暑さの続いた夏の半以上を東京で過した融は、愛子同伴で、次男の養子問題についての用件を帯び旁々三四日の予定で、山の空気を吸ひにS―湖畔の親類を訪ねた帰りを、彼は煤烟に悩まされ通しの、中央線を避けて、途中どこかへ寄つて別の方面から帰るつもりで、交通の便利のいゝA―温泉へと立寄ることにしたのであつた。彼がその温泉を見るのは六七年目であつた。格別気に入つてゐた訳ではなかつたけれど、死んだ娘を旅へ連れ出したのは、その温泉より外にはなかつたので、何んとはなし心を惹かれるのであつた。
「ほんの遊散場に過ぎないんだけれど、割合色々な人が行つてゐるんだ。」融はM―市を通過しつゝある自動車のなかでそんな話をした。
 わづか三四日の旅行なので、成るべく有効に使ひたいと思つたし、この山国には行つて見たい処が沢山あつたけれど、結局そんな平凡な処へ落著くより外なかつた。子供達を海岸へやつてある関係から、東京を長く離れることは許されなかつた。
「さう。何処でも可いのよ。出た以上は少し旅行気分を味はつて帰りたいわ。」
「A―で一泊して、それから又途中どこかへ寄らう。何んなところか軽井沢へおりて見ようかしら。」
「好いわ。行きたい!」
 融の亡妻の親類であるだけに、好意はもつてゐてくれても、愛子に取つては何となし息苦しい其の家を立つて来たので、彼女は遽かに元気づいてゐた。
「私幸福よ!」愛子はさう言つて、袴をはいた彼の膝のうへに片手をおいた。
 親類の家を立つとき、彼はごわ/\した袴を穿いた。平易な装の好きな彼が何のために袴をはいたのか、それは彼自身にもわからなかつた。多分湖畔では、事によると何時かのやうに同好の人達が集つて、自分を招くやうなことがないとも限らないと、さう思つたので、袴だけは用意して来たのであつたが、近来芸術家としての彼の値打も大分下落してゐたのに、二タ晩しかゐなかつたので彼の来たことは誰の耳にも触れずに済んだのであつた。トランクが一杯なので、荷嵩を低くするためでもあつたが、愛子をつれてゐると、多勢の人に彼が誰であるかゞ直ぐ判るので、いくらか体裁を繕ふ意志も働いてゐないとは言へなかつた。彼は形式家ではなかつたけれど、しかし又まるでそれを無視するほど超越してもゐなかつた。彼は汽車のなかで、時々それをかなぐり棄てたいやうな気がしてゐた。
 馴染の旅館の門の内へ自動車が辷りこんだ。そして二人は風通しのいゝ二階の一室へ通された。
「こゝなら好いね。」
「え、好うござんすわ。おゝ好い気持だこと。」彼女は手摺のところへ出て、M―市の町の灯の遠くに見える夜色を眺めてゐた。
「この家にはちよつと極りが悪いんだよ。」融は浴衣に着かへるべく、袴を取りながら言つた。
「さう。」
「前に来たとき、下の部屋で、女中が火をもつて…

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