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恢復期
かいふくき
作品ID55419
著者堀 辰雄
文字遣い旧字旧仮名
底本 「堀辰雄作品集第一卷」 筑摩書房
1982(昭和57)年5月28日
初出「改造 第十三巻第十二号」1931(昭和6)年12月
入力者大沢たかお
校正者岡村和彦
公開 / 更新2012-11-27 / 2014-09-16
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

第一部


 彼はすやすやと眠つてゐるやうに見えた。――それは夜ふけの寢臺車のなかであつた。……

 突然、さういふ彼が片目だけを無氣味に開けた。
 さうして自分の枕もとの懷中時計を取らうとして、しきりにその手を動かしてゐる。しかしその手は鐵のやうに重いのだ、まだその片目を除いた他の器官には數時間前に飮んだ眠り藥が作用してゐるらしいのである。そこで彼はあきらめたやうにその片目を閉ぢてしまふ。
 が、しばらくすると、彼の手がひとりでに動き出した。さつきの命令がやつといまそれに達したかのやうに。さうしてそれがひとりで枕もとの懷中時計を手搜りしてゐる。その動作が今度は逆に、彼自身ほとんど忘れかけてゐたさつきの命令を彼に思ひ出させる。
「まだ三時半だな……」
 彼はさうつぶやくと、一つ咳をする。するとまた咳が出る。さうしてその咳はなかなか止みさうもなくなる。まだ一時間ばかり早いけれども仕方がない。もう起きてしまはうと彼は思つた。――彼は上衣に手をとほすために身もだえするやうな恰好をする。やつとそれを着てしまふと、半年近くも寢間着でばかり生活してゐた彼には、どうもそれが身體にうまく合はない。ネクタイの結び方がなんだかとても難かしい。靴を穿かうとすると、他人のと間違へたのではないかと思ふ位だぶだぶだ。――さういふ動作をしながら、彼はたえず咳をしてゐる。そのうちにそれへ自分のでない咳がまじつて居るのに氣がつく。どうも彼の眞上の寢臺の中でするらしい。おれの咳が傳染つたのかな。彼は何氣なささうに自分の足もとに揃へてある一組の婦人靴を目に入れる。
 彼はやつと立上る。さうしてオキシフルの壜を手にしたまま、ステイムで蒸されてゐる息苦しい廊下のなかを歩きだす。鞄につまづいたり、靴をふんづけさうになる。一つの寢臺からはスコツチの靴下をした義足らしいのが出てゐて彼の邪魔をする。そんなごつた返しのなかを、彼はよろよろ歩きながら、まるで狂人かなんぞのやうに眼を大きく見ひらいてゐる。……
 そのときふと彼は、さういふ彼自身の痛ましい後姿を、さつきから片目だけ開けたまんま、ぢつと睨みつけてゐる別の彼自身に氣がついた。その彼はまだ寢臺の中にあつて、ごたごたに積まれた上衣やネクタイや靴のなかに埋まりながら、そしてたえず咳をしつづけてゐるのであつた。


 夜の明ける前、彼はS湖で下車した。
 其處からまた、彼の目的地であるところの療養所のある高原までは自動車に乘らなければならなかつた。途中で彼は、その湖畔にある一つのみすぼらしいバラツク小屋の前に車を止めさせた。そこには、もと彼の家の下男をしてゐたことのある一人の老人が住んでゐた。その老人はもう七十位になつてゐた。さうしてもう十何年といふもの、この湖畔の小屋にまつたく一人きりで暮してゐるのだつた。ときどき神經痛のために半身不隨になるといふことを聞い…

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