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![]() ルウベンスのぎが |
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作品ID | 55426 |
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著者 | 堀 辰雄 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「堀辰雄作品集第一卷」 筑摩書房 1982(昭和57)年5月28日 |
初出 | 第一稿「山繭 第十八号」1927(昭和2)年2月1日、第二稿「創作月刊 第二巻第一号」1929(昭和4)年1月号、第三稿「作品 創刊号」1930(昭和5)年5月1日 |
入力者 | 大沢たかお |
校正者 | 岡村和彦 |
公開 / 更新 | 2012-12-07 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 22 ページ(500字/頁で計算) |
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それは漆黒の自動車であつた。
その自動車が輕井澤ステエシヨンの表口まで來て停まると、中から一人のドイツ人らしい娘を降した。
彼はそれがあんまり美しい車だつたのでタクシイではあるまいと思つたが、娘がおりるとき何か運轉手にちらと渡すのを見たので、彼は黄いろい帽子をかぶつた娘とすれちがひながら、自動車の方へ歩いて行つた。
「町へ行つてくれたまへ」
彼はその自動車の中へはひつた。はひつて見ると内部は眞白だつた。そしてかすかだが薔薇のにほひが漂つてゐた。彼はさつき無造作にすれちがつてしまつた黄いろい帽子の娘を思ひ浮べた。自動車がぐつと曲つた。
彼はふと好奇心をもつて車内を見まはした。すると彼は輕く動搖してゐる床の上にしちらされた新鮮な唾のあとを見つけたのである。ふとしたものであるが、妙に荒あらしい快さが彼をこすつた。目をつぶつた彼には、それが[#挿絵]りちらされた花瓣のやうに見えた。
しばらくしてまた彼は目をひらいた。運轉手の背なかが見えた。それから彼は透明な窓硝子に顏を持つて行つた。窓の外はもうすつかり穗を出してゐる芒原だつた。ちやうど一臺の自動車がすれちがつて行つた。それはもうこの高原を立ち去つてゆく人々らしかつた。
町へはひらうとするところに、一本の大きい栗の木があつた。
彼はそこまで來ると自動車を停めさせた。
自動車は町からすこし離れたホテルの方へ彼のトランクだけを乘せて走つて行つた。
それのあげた埃が少しづつ消えて行くのを見ると、彼はゆつくり歩きながら本町通りへはひつて行つた。
本町通りは彼が思つたよりもひつそりしてゐた。彼はすつかりそれを見違へてしまふくらゐだつた。彼は毎年この避暑地の盛り時にばかり來てゐたからである。
彼はしかしすぐに見おぼえのある郵便局を見つけた。
その郵便局の前には、色とりどりな服裝をした西洋婦人たちがむらがつてゐた。
歩きながら遠くから見てゐる彼には、それがまるで虹のやうに見えた。
それを見ると去年のさまざまな思ひ出がやつと彼の中にも蘇つて來た。やがて彼には彼女たちのお喋舌りが手にとるやうに聞えてきた。彼は彼女たちのそばをまるで小鳥の囀つてゐる樹の下を通るやうな感動をもつて通り過ぎた。
そのとき彼はひよいと、向うの曲り角を一人の少女が曲つて行つたのを認めたのである。
おや、彼女かしら?
さう思つて彼は一氣にその曲り角まで歩いて行つた。そこには西洋人たちが「巨人の椅子」と呼んでゐる丘へ通ずる一本の小徑があり、その小徑をいまの少女が歩いて行きつつあつた。思つたよりも遠くへ行つてゐなかつた。
そしてまちがひなく彼女であつた。
彼もホテルとは反對の方向のその小徑へ曲つた。その小徑には彼女きりしか歩いてゐないのである。彼は彼女に聲をかけようとして何故だか躊躇をした。すると彼は急に變な氣持になりだした…