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海蛍の話
うみほたるのはなし |
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作品ID | 55427 |
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著者 | 神田 左京 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「光る生物」 自然科學叢書、越山堂 1923(大正12)年3月6日 |
初出 | 「九州日報」1921(大正10)年 |
入力者 | 岩澤秀紀 |
校正者 | 米田 |
公開 / 更新 | 2014-05-03 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 36 ページ(500字/頁で計算) |
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一 序言
動物の發光物質の理化學的研究に沒頭してゐるものが、目下世界の學界に僅かに三人ゐる。その一人はラフアエル・デユボアーといふ人で、佛蘭西のリオン大學の生理學者である。この學者は明治三十六七年以來の研究者で、この問題には多大の獨創的貢獻をしてゐる。この人の研究材料は佛蘭西海岸の岩石内に住む光る介類の一種フオラスである。
次はニユートン・ハアヴエーといふ男で、米國のプリンストン大學の生理學者である。ハアヴエーは大正二三年以來の研究者である。彼は幸か不幸か米國には良い研究材料を持たないが金がある。その金はハアヴエー自身のではない。カネギー學資金から出るのである。彼は金に飽かして氣儘な研究をしてゐる。既にこの研究のために數萬圓の金を使つてゐる。彼は大正五年二月から同年九月まで(妻君も同道で)、大正七年八月から翌年二月まで、二囘日本に來て海螢を研究した。東京の帝國ホテルに泊り込んで、中々贅澤を極めたものだ。そればかりでない彼は、三回目に日本を通過して昨年八月から今年二月まで、フイリツピン地方に研究に來てゐた。
もう一人は不肖な私である。私が海螢の研究を始めたのは、大正七年からである。海螢はこの種の研究には、實に貴重な材料である。このことは逐次講演中に申述べて明かにしたい。所が日本は寶の持腐れで、それを研究する人がない。人はあつても金がない。金はあつても研究者には使はせない。私は大正五年七月末に福岡に來た。そして福岡の近海には海螢が澤山ゐることが分つたから研究して見たいと思つたが、二ヶ年間は全く無爲に過ぎた。大正七年七月から長崎縣北松浦郡佐々村の濱野治八といふ篤志家が、私の生活を保障して呉れることになつて、始めて宿志を實現したのである。もし濱野治八氏の厚意がなかつたら、今晩海螢の話をすることは出來なかつたらうと思ふ。私はこの機會を利用して學界のために、特に濱野氏の厚意を推奬して置きたい。
二 海螢の形態
海螢は明治二十四年に獨逸の動物學者に發見された。しかも日本で發見したのである。海螢は日本の海には何處にでも澤山ゐるのに、どうしてそれが日本の動物學者に見つからなかつたゞらう。全く不思議だ。
海螢は動物學者が介形類と言つてる位で、その形が大變介類に似てゐる。しかし海螢は介類ではない。甲殼類で蝦や蟹類に近い動物だ。それで海螢とはいふが、陸にゐる螢とは全く違つた動物で[#「動物で」は底本では「動物て」]、たゞ發光するといふ點が似てゐる丈けである。
海螢は全く二枚の介殼に包まれてゐる。その長さは約一分 高さは長さの約三分の二、幅は長さの約半分位だ。長圓形のもので、扁平な卵に似てゐる。その介殼の表面は滑かで、薄い硝子のやうに透明で、毀れ易くて多少石灰化してゐるが、主に有機物である。この左右二枚の介殼は背部にある二ヶ所の薄い膜の蝶番で連結されてある。そして又…