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命
いのち |
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作品ID | 55429 |
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著者 | 室生 犀星 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「黒髮の書」 新潮社 1955(昭和30)年2月28日 |
初出 | 「改造 第35巻第3号」改造社、1954(昭和29)年3月1日 |
入力者 | 磯貝まこと |
校正者 | 待田海 |
公開 / 更新 | 2021-08-01 / 2021-07-27 |
長さの目安 | 約 29 ページ(500字/頁で計算) |
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お咲は庖丁をとぎ、淺吉は屋根の上をつたひながら[#挿絵]し茅を施してゐる。
一萬戸ある金岩の町は、火見櫓をまんなかに抱いて、吼える日本海のぎりぎりまで町裾を捌いてゐる。春寒い曇天はきたない瓶の色をして、硬くるしい息窒るいやな景色である。町はづれの松林のなかの一軒家、
淺吉は噴井戸にゐるお咲の背中を見ながらいつた。
「お咲さ。」
「何んだ。」
「お前な、何時までかうやつてゐても埒があかないからな。」
「どうせいといふのだ。」
「何處ぞへ行つてくれんか。」
「またおつぱじめたね、何處へつて行く處なんかあるものか。お前もそれは知つてゐる筈だに。」
「けれど本氣になりや何處にでも行ける、おめえは本氣になつてくれないのだ。」
「何のための本氣だ。」
「本氣でここから出て行つて貰ひたいのだ、氣詰りで人樣にも合はす顏がない……。」
「いまさら氣詰りだつていい加減な胡麻を摺るない、一たい何十年かうやつてゐるか知つてゐるか。」
「おめえが三十六だから三十六年かうやつてゐる譯ぢやないか。」
「生れ落ちて三十六年もゐる家から何處に落ちつく先があるといふのだ、お前の家は家でも、半分はあたしのものさ。」
「分ける物は分けるよ。」
「一畝二畝と賣つてもう家のまはりばかりで、買手のない川べりぢやないか。何を分ける物があるといふのか、お前だつてあたしだつて着のみ着のままぢやないか。」
「…………」
「誰一人だつて町ぢや對手にしてくれ手はないし、あたし共だつてそれを承知の上で松林の中にしけこんでゐる、どの面下げてそんなご託がつけるのだい。」
「お前さへゐなくなればおら達はきれいになる、お前のゐるあひだは後指をさされるのだ、おら、そこをお前に判つて貰ひたいのさ。」
「何言ふの、いまさらあたしがゐなくなつたつて、おめえのしたことがきれいになるなんて、ちやんちやら可笑しい、ひとりよがりもいい加減にしなよ。」
「おら一人になつて居れば世間でもだんだんにわすれてくれるやうになる。」
「出て行つたあたしや何處で何をしてくらすのさ。」
「お前のことだもの何かしてくらして行くだらう。」
「こけめ、その手をくふものか、ここでは死ぬまでゐてやる、お父お母の家にゐるのに何遠慮がいるもんか、や、なこつた。」
「そのつら見えぬ處にゐてくれ、ここにゐるならあちこちに隱れてゐろ。」
「同じ家の中にゐてそんな逃げ隱れてくらせるもんか、さてはおめえこのごろあたしがこと、や、になつたな。」
「うん、やになつた。」
「本氣でやになつたか。」
「なつたともとうにやになつた。」
「何から何までやになつたか。」
「足の先から頭のげぢげぢまでや、になつた。」
「もう一ぺんきくがそれは正眞の本氣なのか。」
「うそなぞついてゐられるか。」
「畜生にも劣つた兄キだ。いまさらそんな口がきけた義理かい、一たい、幾つのときからあたしを騙しとほ…